若い女性が、おずおずと立ち上がると、おそるおそる次のように聞いた。
隣の人は、何か、あると神を奉り、派手にお祈りをします。それなのに、私は、どのように信仰心を表し、どのように、神を、奉ったらいいか分かりません。そのことで、いつも迷うのです。お金があれば、いろいろなものを奉納できるのですが、それもできません。そのうえ、神などというと、時代遅れか、変な宗教にかぶれているのではと、誤解されるのが嫌で、人前で、神の名を口にするのも、恥ずかしく思うのです。このような私でも神は、お見捨てには、ならないでしょうか。罰は当たらないでしょうか。
それを聞いて、その方は、微笑まれ、次のように言われた。
信仰、篤き者と信仰なき者を、外見から、判断することは難しい。なぜなら、信仰心が、篤い者の生活と、信仰心なき者の生活は、端から見て大差がないからである。
信仰は、自らの心の問題だ。信仰は、自らのありようの問題だ。神の問題ではない。況や、自分以外の問題でもない。人がどう思うかではなく、自分がどう思うかが、大切なのです。他人に、どう思われるかを考えていたら、信仰など保てない。
故に、真に信仰篤き者は、あたかも無神論者のような生活をしている。ただ、その生活は、慎ましく、清く、自信に満ちた、心豊かなものである。なぜならば、信仰篤き者は、満ち足りることを知っているからである。
足らざるは、貧なり。満ち足りた者は常に豊かなる者なり。信仰によってもたらされるものは、心の豊かさ、真の豊かさである。
真の信仰心を持つ者は、信仰は、人のためにするのではない事を知っている。信仰は、自らの行いと規律を糺すためにある。
故に、信仰篤き者は、人前で、信仰を誇示することの、愚かしさをしている。かといって、信仰を、人に知られることを、恥じていては、自らの行いと規律を、糺すことは、できない。故に、信仰篤き者は、信仰心を、人に誇示することも、隠すこともしない。自らの心のありように従い、心の赴くままに、振る舞うだけだ。
それ故に、普段の生活を見ているだけでは、その人が信仰心を持っているかどうかを伺い知ることはできない。
それでは、どうすればいいのでしょうかと、その女性は重ねて聞いた。
そこで、その方は、次のように言われた。
神を感じた時に手を合わす。それだけでも良いのです。美しい夕日を見た時、雲から差し込む太陽の光を見た時、ああ、きれいだなと感じ時、そっと心で手を合わせるそれだけで良いのです。どのようにするかではなくて、神を感じる心こそが、大切なのですから。
あるがままに受け入れなさい。醜いものも、汚いものも、うつくしいものも、それがそこにそうあるならば、あるがままに受け入れなさい。なぜならば、神は、すべてなのです。
私達は生かされているのです。
生きるためには、多くの生き物を犠牲にしなければなりません。
多くの生き物の犠牲によって、生かされている事を、否定しても意味が、ありません。なぜなら、事実を否定しようがないからです。また、それが嫌だからと言って食事をとらなければ、自分を否定することになります。
貴い犠牲の上に自分は、生かされている事を忘れてはなりません。
生かされている事に感謝し、また、自分を生かしているものに感謝し、日々の糧に感謝し、神に感謝する。自分を生かしているものを、大切し、無駄にしない心が、肝心なのです。命をもてあそんだり、資源を無駄に費やす事は、自らが生かされている事、自らを生かしている者を侮る行いです。
生かされている事を感じた時、静かに胸の前に手を合わせ、祈りを捧げましょう。感謝し。感謝し。感謝する。
神について、身近で親しい人間の近況や、友達について話すように、晩飯に何を食べるか、次の休みを、どういうふうに過ごすかといった話しのように、また、他愛のない噂話のように、気楽に話せたらいいね。友達の悩みの相談や、恋人との楽しい語らいのように話せたらいいね。そうしたら、もっと神が、身近で親しいものになってくる。神は、親のようなものでもあり、友達のようなものでもあり、恋人のようなものでもある。けっして遠い存在ではないのだから・・・。
何かを、信じたい。それが、当たり前の本音です。何も、信じられないなんて、それこそ、悲惨なことです。信じなければ、生きていけない。何者も、信じられないような時こそ、何かを、信じなければいられない。それが、人間です。だからこそ、人間には、神が必要なのです。
信仰というのは、純粋に個人の問題です。他人に強要するものでも、強要されるものでもありません。
信仰の源は、あなたの内なる動機です。信仰は、あなたの魂の問題なのです。あなた自身が心から神を必要とし、求めないかぎり、信仰は、見せかけだけの偽りのものにすぎません。人の顔色を、うかがって、神に祈りを、捧げても、その祈りは、神には、届きません。
だから、信仰を理由にして、他人を虐げたり、迫害したり、差別するのは間違いです。
また、救いを外に求めても、救いはえられません。あなたを救えるのは、あなた自身でしかないからです。
神は、あなたの内に居られるのです。あなたの神は、あなただけの神なのです。
信仰のない者は、根無し草、浮き草のような者です。帰る場所がわからず、漂流しつづける。大水や嵐にあえば、ひとたまりもありません。帰るべき原点、頼るべき核心、依るべき中心がないのです。そういう人は、復元力がない。一度、精神のバランスをなくせば、元の自分に返ることができず、あっという間に、ひっくり返ってしまうのです。
よく、後から来た者と、先に来た者を、同じに、扱うのはおかしいという人がいます。しかし、それは、信仰を、義務だと思うからです。信仰は、喜びです。先に着いた者は、それだけ早く、そして、多くの喜びを、得ることが、できます。信仰に、目覚めるのが、遅い者は、それだけ多く、悩み、苦しむのです。
信仰は、義務ではありません。愛です。子育ては、義務ではありません。愛です。義務心だけでは、子供は、育てられません。子育ては、戦いです。特に、自分との戦いです。肉体的にも、精神的にも、限界ぎりぎりまで、母親は追いつめられる。それを、越えた時に、生きる喜びを見いだすことができるのです。義務だと思えば、自分の限界を超えてまで、子供に尽くすことはできません。信仰も同じです。神への愛が、根本になければ、信仰の本質は、理解できません。神への愛は、生きとし、生きるもの、すべて、命の本源に対する愛です。そこに信仰の本質が、隠されているのです。だから、信仰の本質は、愛なのです。
誰が、正しいか、誰が、間違っているかではありません。皆、正しいし、皆、間違っているのです。誰が正しくて、誰が間違っているかは、神のみぞ知るのです。大切なことは、誰が、正しくて、誰が、間違っているかではなく。正しいか、間違っているかだけで人を裁こうとすれば、底なしの愛憎の世界にはまってしまいます。大切なのは、誰が正しくて、誰が間違っているかではなくて、誰を、愛しているかです。だから、信仰の本質は、愛なのです。
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