信心深そうな中年の男性が、その方に静かに語りかけました。
いにしえの神は、信者に生け贄を求められます。神は、なぜ、生け贄を求められるのですか。生け贄を求められた時、私たちはどうすればいいのでしょう。
その方は、その方を優しく見つめられると静かに語り始めました。
それが真の神ならば、生け贄など求めません。特に、自己犠牲など求められはしません。生け贄を求める者があれば、それは神ではありません。神が求めているのは、献身的な愛です。愛する者になぜ生け贄などを求めるでしょう。存在の根本である自己の犠牲など、もっとも、神の忌み嫌うものです。神は、いきとし生きる物、皆、生きよといわれているのです。
家族を守るために、また、自らの信念を貫くために、結果的に、自らを犠牲にすることもあります。だかといって、自分はどうなっても良い、皆が良くなればと、ことさらに、自己犠牲を賛美する事は、間違いです。況や、神の名の下に自己犠牲を強いることは、神を侮辱することです。神は、自己犠牲など求めてはいません。
あなたは、神によって生かされているのです、自らが生かしている者の命を意味もなく、神は、求めるでしょうか。神は、生きよと言われているのです。
それが、結果として、自らを、犠牲とする事になったとしても、最後まで、自分を生かす道を求め、努力することです。それこそが、神の意志です。自己犠牲が発生するのは、自分が、自分として生きられなくなった時、そして、自分として生きる為に不可欠なもの(それが、なければ、自分を、自分として保てなくなるもの)を護ろうとした時、結果的に生じるのです。
消防士が、仕事中に犠牲になったとしても、それを自己犠牲とは言いません。ただ、自分の仕事に忠実だった。誠実だっただけです。それは、賞賛されるべき事です。神の名誉を守るために死んだとしても、それは、自己犠牲ではありません。自分の信念や信条、義務に殉じる事があったとしても、それを自己犠牲とは言いません。それは、自己に忠実なだけです。自己犠牲とは、犠牲という行為のみを、目的とした行いを、指して言うのです。神は、生け贄を求めていません。求められてもいないのに、自らを、生け贄にすることを、自己犠牲というのです。生け贄を捧げることは、神を試す行いです。神を試してはなりません。神は、自己犠牲など望んでは、おられないのです。
万人の幸せのために、自らを犠牲にするという考えこそ間違いです。自分の幸せを追求することが、万人の幸せの追求につながるのです。その結果、人から見て自分を犠牲にしているように見えることもあるのです。しかし、それは、人から見てであり、結果的にに、過ぎないのです。自己犠牲を目的にすることは、自己否定です。狂信もまた、自己否定です。
だから、神は、生け贄など求めてはいないのです。況や、無意味に、己を犠牲にするなどもってのほかです。結果的に犠牲的精神を発揮するとしても、それは、自分を生かすためにするのであり。自分の存在を、否定してしまうような、自己犠牲は、自己陶酔の極みにすぎず、信仰の対極に位置するものです。
それ故に、どのような形においても、どのような動機においても、自殺こそ、最も神を冒涜する行為です。神は、我々を生かしているのです。その事実を否定することは、神への冒涜以外のなにものでもありません。
神を信じなさい。そして、自分を信じるのです。自分さえよければと言う言葉の中には、自分があるのです。まず、自分がどう思うか。自分が、何を正しいとするのか。他人なんてどうなっても良いと、あなたは、思いますか。自分という言葉の裏には、自分に係わるすべてを、良くするという意味が、含まれているのです。故に、この世の不正を糺すのは、人としての使命なのです。
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自己犠牲について