2001年1月6日

神について

罪と罰






 私は、裁判官です。
 そう言うと一人の紳士が立ち上がった。

 あなたは、人を裁くなと言われる。しかし、罪人を裁くのが、私の務めです。人を裁かなければ、世の中は乱れます。さりとて、人の身で人を裁くのは、確かに、辛い。その怖ろしさが、身に染みます。

 その紳士の目を見つめながらその方は、優しく問い掛けられた。

 あなたが人を裁くことを怖れるのはよく解ります。罪とは何か。あなたが裁こうとしているのは何か。

 罪を犯すのが罪ならば、罪を裁くのも罪。
 しかし、誰かが裁かなければ、人の世は治まらない。裁けぬ罪を裁くのだから、常に神を怖れ、懺悔することです。さもないと、神を怖れぬ者になり、やがては、自らを神としてしまうでしょう。それは、この世で最高の罪です。
 故に、常に、神と向き合い、神を仰ぎ、神を怖れるのです。そして、自らを省み、告白し、懺悔し、日々、悔い改めるのです。そして、新たなる気持ちにて、裁きの場に臨むのです。
 人の世にあって人を裁く者が、神を怖れなくなったらおしまいです。況や、神を信じなければ、自らを神として崇めることになります。信仰心なき者が裁きを下すことくらい恐ろしい事はありません。

 何を罪とし、何を罰しようとするのでしょう。あなた方が裁こうとしている行為は、人の世の都合によって定められた法や掟に基づく行為です。それは、法に基づいて罰せられれば許される。
 しかし、人の罪は、その人自身の心の問題です。あなたの罪は、あなた自身の心の問題です。だから罪は、本心から悔い改めない限り、消えません。他人に罰せられたから、他人に罰せられるのが恐ろしいから、自らの罪を認めるわけではありません。だとしたら、その人が自らの罪を認めない限り、その人を罰することはできないはずです。
 しかし、それでは、人の世の秩序は保てません。だから、人は、法を作り、人を裁くのです。人の復讐心と社会の秩序が人を裁かせるのです。

 法は、契約に基づき、契約は神によるのです。
 故に、法の根源は、信仰にある。神を否定する者は、自らを神とする。自らを神とすれば、自分自身を許すべき存在を失う。それは、自らが救済される機会すら、自分の手で、潰してしまう事になります。信仰心なき者が法を司れば、独裁者となるのです。それこそが最も、怖れるべき罪なのです。
 人を裁くのは、人の作った法に基づく。しかし、人が自らを神とし、怖れるべき真実を見失えば、人を自らを裁く法する失う。自らを裁く法こそが、自らを許す法なのです。

 一人の男が、立ち上がると、その人にくってかかるように言った。

 しかし、仮に、全てを許されるというのならば、悪い事をしても必ず許されるとしたら、誰も、正しい行いなどしなくなりますよ。この世から不正はなくならないではないですか。馬鹿正直に正しい生き方などしているのがバカバカしくなりますよ。大体損じゃないですか。人が自分の行為を改めるのは、怖れですよ。天罰とか、罰(ばち)が当たるとか、地獄に堕ちるとか、脅かさなければ、良い事なんかしやしませんよ。

 それを聞くと、その方は、哀しげに微笑んで。
 あなたは、自分の過ちを認めると言う事が、どれ程恐ろしいか解っていないのです。自分の罪を認めるのがどれ程辛く、苦しいことか理解していないのです。
 自分の過ちや罪を認めるというのは、死ぬより辛い。それまで自分が生きてきた軌跡も生き様も全てを否定し。自分が正しいと信じてきた事、信じて行ったことが、過ちだったと後悔することを意味するのです。あなたが考えるほど容易いことではない。自分の存在を恥じ、生きていくことすら辛くなる。救いようがない。そこまで思わないのならば、本当に自分の罪を認めたわけではないのです。恥ずかしくて、人前にでることすらかなわない。それほど辛く苦しいことです。それ故に、神にしか救えない。悪いと解ったら、後で認めて、謝ればいいという事では済まないのです。それから贖罪が始まるのです。だからこそ、自分の罪を認められずに人々は苦しんでいるのです。正しいと信じて行った行いが、間違いだったと気づいた時、どれ程、驚愕し、どれ程哀しいか。そして、自分の行いによって傷ついたり、亡くなった人がいたとしたら。悔やんでも悔やみきれないものです。例え、相手は許してくれたとしても、自分が許せない。その苦しみから逃れるために、自らの罪を認められなければ、人は、偽りの人生を送らなければならないのです。
 天国も地獄のこの世にあるのです。あなたの心の中にあるのです。心の中に地獄を持つ者は救われません。苦しみから逃れることはできないのです。それ故に、悔い改める必要があるのです。それなのに、自らが、自らの罪や過ちを認め悔い改めることは難しいのです。それ故に、神は居られるのです。

 自分の罪を認めるためには、素になって神に向かい合うしかないのです。嘘偽りを捨て、誠心誠意、神に祈るしかないのです。そして、自分に正直になれた時、自分の罪を知り、認める事ができるのです。

 これだけは、忘れてはなりません。人の世の法は、人の世の法。絶対、普遍の原理に基づくものではありません。人の世の都合、人の思惑で変わるものです。世の中の体制が変われば、人の世の法も自ずと変わります。法が変わらなくとも、法の運用も時代・時代で変わるものです。裁判官も人の子、全てを見通しているわけではありません。それでも、裁きを下さなければ、人の世の秩序は保てません。だからこそ、法の番人たる者は、常に、神を怖れなければならないのです。神を怖れ敬う心をなくせば、直ちに独善に陥る。それは、神を否定する事。自らを神とし、己(おのれ)を否定する事です。

 怖れるべき事は、人を裁くことによって自らを神とすることです。それは、神を否定する事だからです。神を否定すれば、罪を償うこと、穢れを清める事はできません。人を裁くことの罪は、裁く者が、神への怖れをなくすことです。神に対する怖れを抱き続けることにより、己の罪を浄化し続けなければ、人を裁く者は、自分を保つことはできません。

 人の世にあって、人の世の秩序を守る為に、人を裁くのは致し方ないことです。法を司り、裁く者は、人の世の鏡にすぎません。法は、目安にすぎません。罪人を裁くのは、罪を犯した者自身です。罪人、自らの法によって、自らが裁かれるのです。人を裁く者は、心を平らにし、その者の実像を写す鏡となるのです。明鏡止水。常に、澄んだ心で、裁きの場に臨むのです。







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