2001年1月6日

神について

今ある宗教


 一人の僧侶が立ち上がると、その方に向かって合掌、礼拝された。そして、少しためらいがちに口を開いた。
 見てのとおり、私は、僧侶です。仏に仕える者です。あなた様の言われることは、正しいと思うのですが、今の信心を捨てることが、できません。どうしたら宜しいのでしょうか。

 それを聞くと、その方は、次のように応えられた。

 神は、今ある宗教を否定したりはしません
 人が、何を信じようとそれは、人の問題である。神の問題ではない。神への信仰は、自らの内の問題である。信仰の対象はあくまでも、その人、個人の問題である。
 それに、唯一無二の神を信じる者は、結局、同じ神を信じることになるのです。
 唯一無二、絶対なる神は、本来、分かつことはできません。
 この世のすべてである神が、この世の一部を分けて、他の部分を排斥すること自体、自己矛盾である。究極、行き着くこところは、すべての神は、唯一であるという神の実相である。だから、神は、今ある神を肯定も、否定もしない。肯定することも、否定することも、意味がないからである。どのような神を信じるかは、その人の問題である。しかし、行き着くところ、その神が、真実の神であれば、同じ神を崇めていることになるのです。
 所詮、問題なるのは、神の名の下に、人と人が、争うことです。
 神の名の下に争う事は、愚かなことだ。神の名の下に、人と人が争うのは、自らの神の正当性を、証明したいが為にである。しかし、そのことは、神を試す行為であり、すでに自らの神の正当性を、疑っていることになる。神は、自らの正当性を証明することなど望んではいない。なぜなら、神は、それ自体で明らか、自明なものだからである。神を試すのは、神を疑っている証にすぎない。

 他の人に自らの神の正当性を強要することは愚かだ。なぜなら、神の正当性を問題にしているのは、人の側であり、神の側ではない。神の正当性は、神自身にある。証明する必要はない。

 神の正当性は、その人みずからの信仰、すなわち、行いと規律によって証明されている。ならば、神の名の下に争うのは、神のためではその人みずからの信仰の正当性を証明したいからにすぎない。
 故に、神の名の下に諍い、争うことは、まったく真の信仰のあり方とは、無縁の愚かな行為にすぎない。むしろ、神を侮辱することだ。
 神の名の下に残虐行為を行い、人を殺めても、それを、神の責任に帰すことはできない。
 その報いは、その者が、受けなければならない。
 神は、どのような行いも正当化したりはしない。
 神の教えや信仰を広めるという大義によって、戦いをしたとしても、それは、神の戦いではない。その者の戦いである。
 唯一無二の存在である神は、神の名の下に人を分け隔てをしないからだ。
 それは、右手が、気に入らないと、左手が、戦いを挑んでいるようなものだ。
 翻って言えば、神の名の下に悪行や残虐行為が行われたとして、神を否定する口実にはならない。なぜなら、その行いは、神とは無縁だからである。
 人が、何を信じようと良いではないか。ただ、それを強要しないかぎり。
 信仰は、自分の内なる問題なのだ。

 本源は、同じなんですよ。偶像を崇拝せず、唯一の神を唱えるならば、元は、同じ神なんです。同じものでも見る場所、見る角度、見る時間によって違って見えるように、見る時代、見る人、見る場所が違うだけで、結局、同じ神なのです。
 それなのに、自分が見た神は、違うと言って、他を、排斥することは、馬鹿げています。違いを生じさせているのは、自分だから、それぞれの感じる神が、違うのは、至極、当たり前なのですから。その違いを、当然のこととして受け入れればいいだけです。

 僧侶は、その方に向かってそっと合掌すると静かに尋ねた。

 一体、あなたは、どの様な神を信じておられるのですか。
 キリストの言われる神ですか。イスラムの神ですか。

 それを聞かれるとその方は優しく微笑まれ。答えられた。

 私にとって神は、神です。
 誰々の神とか、何々の神と言う隔てはありません。
 神を隔てる者は、自分ではありません。
 私にとって神は、唯一の存在です。
 キリスト教徒の神もイスラム教徒の神も、神というならば、私にとっても神です。
 私にとって神を分別、区別する基準は存在しません。
 私にとって神は神なのです。
 信じる人が信じるように信じればいいのです。
 ただ信仰は、自分の心の問題であり、他人には計り知れないことです。

 神を信じる者は、自分が信じる神以外の神を認めたり、許したりはしない。
 だとしたら、あなたが信じる神があなたにとっての神なのです。
 神は、神なのです。
 あなたが信じる以外の神は、あなたにとって存在しないのです。
 あなたが信じる存在こそが神なのならば、どの様な神を信じるかはあなたが決めるのです。
 あなたが選んだ神によって救済されるのだとしたら、
 結局、あなたを救えるのはあなたしか居ないのです。

 僧侶は、その方をじっと見つめていたかと思うと、唐突に、その方に尋ねた。

 神とは、どの様な存在なのですか・・・。

 そう尋ねられるとその方は、その方は、最初、面食らったような顔をされ、それから少し困ったような表情をした。

 神がどの様な存在かと言われても・・・。

 小首を傾げた後、その方は、思い直したように僧侶の方を振り返ると次のように応えられた。

 神は、本源的存在なのです。ですから、どの様な存在にもなれる。
 慈悲深く、父母のような存在にも、鬼や悪魔のような存在にも成ります
 かもがどの様な存在かは、あなた方、次第なのです。神を慈悲深い、救い主のような存在にするのも、悪鬼羅刹、悪魔の如き存在にするのも、あなた方の心の問題なのです。
 平和を望めば、穏やかな存在として、争いを望めば、荒ぶる神として現れます。
 あなた方が何を望んでいるかによって、あなたの心の有り様一つで、神の有様は変わるのです。
 あなたが唯一の存在であるように、神も又、あなたにとって唯一の存在なのです。

 私にとって神は、ただ忘我して信じる対象です。

 神は超越する。
 神は、万物を超越する。

 神が唯一絶対なる存在だとするならば、神を分かつものの存在を認めることはできないはずである。
 誰々の神だの、何々の神と、神を分かち、隔てたりすれば、神は絶対的な存在でないことを認めることになる。
 神は神である。神は、唯一の存在である。
 この様な神は善悪をも超越している。故に、善神も悪神もない。
 善と悪とを分かつのは、汝なのである。
 汝を裁くのは、汝が定めた掟と汝の行い。
 人を憎めば、憎まれ。
 人を殺せば、殺され。
 盗みを善しとすれば奪われ。
 貪欲なる者は飢えかつ渇く。
 神を信じぬ者は、救われないのである。

 神と人とは最初から最期まで一対一の関係にある。
 他人が何を信じ、何に従うかが問題なのではない。

 人間は、誰しも最後は神の前にただ一人立たされることになる。
 どんな英雄、豪傑も、絶大な権力を誇る者も、賢人も、富める者も、貧しき者も、凡夫も、俗人も、神の前に、ただ一人、裸になって立たされるのである。
 この世の物は、この身も含めて、この世において逝かねばならぬ。
 この世の富や名声、権勢など上っ面の事柄でしかない。
 真実は、汝の魂が知っている。
 どんな偉大な一生であろうと、どんなちっぽけな一生であろうと神にとっては同じ一生なのである。
 人は皆、神の前では平等なのである。

 神を前にした時、神に、問われるのは、
 己に対して疚(やま)しいところがないか。
 己が信じた生き方をやり遂げられたか。
 己の善を成就したか。
 己に誠実に、正直に生きられたか。
 神が問うのは、
 ただそれだけである。
 その時、汝は神を直視できるか。
 神に恥ずべき行為をしていないか。
 恐れるべきは神のみである。

 人は皆、神の前に平等なのである。
 それが平等と言う事である。
 それ以外に平等という事はない。

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