一人の僧侶が立ち上がると、その方に向かって合掌、礼拝された。そして、少しためらいがちに口を開いた。
見てのとおり、私は、僧侶です。仏に仕える者です。あなた様の言われることは、正しいと思うのですが、今の信心を捨てることが、できません。どうしたら宜しいのでしょうか。
それを聞くと、その方は、次のように応えられた。
神は、今ある宗教を否定したりはしません。
人が、何を信じようとそれは、人の問題である。神の問題ではない。神への信仰は、自らの内の問題である。信仰の対象はあくまでも、その人、個人の問題である。
それに、唯一無二の神を信じる者は、結局、同じ神を信じることになるのです。
唯一無二、絶対なる神は、本来、分かつことはできません。
この世のすべてである神が、この世の一部を分けて、他の部分を排斥すること自体、自己矛盾である。究極、行き着くこところは、すべての神は、唯一であるという神の実相である。だから、神は、今ある神を肯定も、否定もしない。肯定することも、否定することも、意味がないからである。どのような神を信じるかは、その人の問題である。しかし、行き着くところ、その神が、真実の神であれば、同じ神を崇めていることになるのです。
所詮、問題なるのは、神の名の下に、人と人が、争うことです。
神の名の下に争う事は、愚かなことだ。神の名の下に、人と人が争うのは、自らの神の正当性を、証明したいが為にである。しかし、そのことは、神を試す行為であり、すでに自らの神の正当性を、疑っていることになる。神は、自らの正当性を証明することなど望んではいない。なぜなら、神は、それ自体で明らか、自明なものだからである。神を試すのは、神を疑っている証にすぎない。
他の人に自らの神の正当性を強要することは愚かだ。なぜなら、神の正当性を問題にしているのは、人の側であり、神の側ではない。神の正当性は、神自身にある。証明する必要はない。
神の正当性は、その人みずからの信仰、すなわち、行いと規律によって証明されている。ならば、神の名の下に争うのは、神のためではその人みずからの信仰の正当性を証明したいからにすぎない。
故に、神の名の下に諍い、争うことは、まったく真の信仰のあり方とは、無縁の愚かな行為にすぎない。むしろ、神を侮辱することだ。
神の名の下に残虐行為を行い、人を殺めても、それを、神の責任に帰すことはできない。その報いは、その者が、受けなければならない。神は、どのような行いも正当化したりはしない。神の教えや信仰を広めるという大義によって、戦いをしたとしても、それは、神の戦いではない。その者の戦いである。唯一無二の存在である神は、神の名の下に人を分け隔てをしないからだ。それは、右手が、気に入らないと、左手が、戦いを挑んでいるようなものだ。
翻って言えば、神の名の下に悪行や残虐行為が行われたとして、神を否定する口実にはならない。なぜなら、その行いは、神とは無縁だからである。
人が、何を信じようと良いではないか。ただ、それを強要しないかぎり。信仰は、自分の内なる問題なのだ。
元は、同じなんですよ。偶像を崇拝せず、唯一の神を唱えるならば、元は、同じ神なんです。同じものでも見る場所、見る角度、見る時間によって違って見えるように、見る時代、見る人、見る場所が違うだけで、結局、同じ神なのです。それなのに、自分が見た神は、違うと言って、他を、排斥することは、馬鹿げています。違いを生じさせているのは、自分だから、それぞれの感じる神が、違うのは、至極、当たり前なのですから。その違いを、当然のこととして受け入れればいいだけです。
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