一人の若者が立ち上がる、その方に聞きました。

修行の様な事は、必要なのでしょうか。

それに対し、その方は、次のように応えました

これといって修行を、しなければならないという事は、ありません。
ただ、内なる神にひたすらに帰依すると言う事は、自分を純化し、自己実現をはかると言う事です。その意味では、日々の行いを正すことにつきます。
自分が、正しいと思う事に従って、生きると言う事です。
つまり、人間として、当たり前の生き方を、貫き通すことです。
しかし、この当たり前の生き方というのが、難しいのです。

ですから、修行の根本、陽明学で言うところの、事上の錬磨です。
つまり、日常生活の中で自分を磨くと言う事です。
非日常的な修行というのは、日常生活での修行を補完する目的で行います。ただ、あくまでも、世俗の人として生きる事です。
世を捨て、出家する必要はありません。
もちろん、当人が、世を捨て、禁欲的な生活を望むのなら、それが、正しいというなら、それを、否定しているわけではありません。
要は、自分なのです。人としての本分です。

職場、仕事場、作業場こそ、修行の場。家庭こそ、道場。仕事で鍛え。子育てに学ぶ。実践せよ。そして、生きよ。それが、修行。

行住坐臥。修業とは、威儀を正すことです。

洗顔、掃除、洗濯、炊事、後片付け、整理整頓、入浴、食事。
日々の行いこそ、修行です。
特に、掃除は大切な修行の一つです。
心身を清潔に保ち。生活を簡素に、質素に、そして清潔にする。住むところを清浄に保つ。
それこそが、内なる神を尊ぶことなのです。

仕事場では、先ず、朝の清掃。道具の手入れ、点検。
仕事の終わりには、整理整頓。後片づけに。掃除。

そして、一日の最後に、黙想、瞑想をして五省をします。

五省
 一,至誠に悖る(もとる)なかりしか。(不正直ではなかったか。)
 一,言行に恥ずる(はずる)なかりしか。(言行不一致ではなかったか。)
 一,気力に欠ける(かける)なかりしか。(怠惰ではなかったか。)
 一,努力に憾み(うらみ)なかりしか。(怠慢ではなかったか。)
 一,不精に亘る(わたる)なかりしか。(いい加減にしていないか。)


あなたが、何を望み、何を正しいとしているかによって、修行の有り様が決まります。
根本的に、欲望は否定しません。欲や感情があるのは、それを神が必要とされたからです。
ですから、欲や感情は、必要です。人は、理性だけで生きられる物ではありません。
生きていくために欲や感情はなの必要です。
しかし、必要な物でも、それが過剰になったり、過激になって、制御できなくなれば、かえって害になります。場合によっては、自己を破壊し、破綻させる原因ともなります。
欲や感情を制御する事が、最も肝要になります。
感性を研ぎ澄まし、欲を持つと同時に制御する術を学ばなければなりません。
修行といえるとしたら、自己を制御する術を学び修得することです。
克己復礼。
自分に克を学ぶ、それが修業です。
その意味では、陽明学が参考になります。

まず、養わなければならないのは、平常心と克己心です。
平常心というのは、感情を、殺す事ではありません。感情を抑える事です。
克己心というのは、自己を否定することではありません。自己を超越することです。
行動は、感情によって触発されるものです。決断は、感情によってなされるものです。
感情を殺せば、行動力は失われます。感情を殺すのではなく、自己の意志の下に抑えるのです。そして、感性を磨き。自己の信念に基づいて決断するための英気を養うのです。それが、平常心であり、克己心です。

この平常心と克己心を養い、明鏡止水の心境に至る事を目的とするのが修行の目的です。

恋も修業の内。人を愛すると言う事は、最も、人間の理性、抑制心を必要とします。
また、恕。
相手を思いやる気持ちが大切です。
また、寛容さも求められます。
自分勝手な恋ほど相手を傷つけるものはありません。
だから、恋愛を成就させることは、最高の修業です。
同じように、育児も修業の内。
家事も修業の内。
仕事も修業の内です。
嫌々仕事をしても身になりません。

近代になると、仕事や労働は、苦役だとする思想が支配的になっています。
つまり、労働は、奴隷がするものだと言った間違った認識です。
それは、差別社会の思想です。差別的な認識が差別をうむ。それが、現代社会の病根です。
仕事や労働は喜びです。
仕事や労働は、修業です。
学校では、勉学は、苦痛だと教えます。だから、休みが待ち遠しい。
しかし、本来学ぶ事は喜びであるはずです。

高校生にとって夏休みは、とにかく何よりも嬉しいものだ。
しかし、同じ高校生でも、高校野球で甲子園を目指している球児は、休みを無条件で喜んだりはしない。高校野球の球児にとって夏休みをとるというのは、つまり、敗退を意味する。それでなくとも、彼等は、練習・練習に明け暮れる。
ある意味で、彼等にとって野球は修業である。
では、野球は、彼等にとって苦行であろうか。
練習は、厳しいけれど苦行ではない。
それに比べれば、学校の勉強は、楽であろうに、なぜか苦行である。
この違いはどこから来るのか。それは、教える者、学ぶ者、双方が、学ぶ目的を履き違えているか、見失っているからである。
第一に、勉学だと教える側も、学ぶ側も思い込んでいるからである。

修業は、決して苦行ではない。歓喜である。生きる歓喜である。生きることそのものである。
修業によって、人は日々向上し、日々成長するからである。
それを苦役、苦行だと思い込んでしまうと、生きる事そのものが、苦しみになってしまう。

教育者は、人を教え育むのが、自らの修業。
母親は、子供を育てるのが修業。
警察官は、社会の治安を維持し、住民が安心して暮らせる社会を作るために努めるのが修業。
医者は、病人を癒すのが修業。
故に、教師は教え子に感謝し、
母親は、子に感謝し、
警察官は、社会に感謝し、
医者は、病人に感謝する。
なぜならば、日々の行いによって、自らが成長するからだ。

一日不作一日不食(いちにちなさざれば、いちにちくらわず)

自分の限界は、神との接点だ。
それ故に、自分の限界に挑戦し続けること、それが修業だ。
限界に挑む事は、自己との対決、神との対峙である。
それ故に、限界への挑戦は、最たる修業である。

修業の中で最も重視すべき事は、決断です。
今の日本人は、間違った事を教えられています。
それは、考えてから決めなさいという事です。
考えたら決められない。
決めてから考える。
その結果には、常に責任をもつ。
それが真の責任感です。

決断というのは、直感です。
決断は、論理的飛躍です。
決して断じることです。
だから、決断力は経験的に身につけなければなりません。
つまり、修養です。修業です。

一球入魂。
野球の投手は、一球一球決断を積み重ねるのです。
一試合で、百球以上の決断をしなければなりません。
その一球一球に魂を込めます。
それは修業です。

生きると言うことは気魄です。
決断は、瞬時にできます。
この決断力を磨くことこそ修業なのです。

最後に、若者が、修行の目的は、何ですかと聞いたら、
その方は、真顔で、幸せになることですと答えられた。
そして、生きることそのものとも・・・。






             

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