見るからに実直そうな職人風の男性が、立ちあがると、おそるおそる、尋ねました。
偶像を崇拝するなと言われました。また、多くの者が、偶像を破壊します。しかし、私は、偶像がなければ、落ち着きません。偶像を崇拝することは、絶対に許されないのでしょうか。
その質問に、その方は、ちょっと困ったような仕草をして、少し、間をおいてから次のように応えました。
私も、できれば、偶像を崇拝しない方がいいと思います。偶像は、物です。物である限り、とらわれる心が起こるものです。しかし、人の心は弱いものです。目に見える物、形あるものしか信じられない者もいます。信仰の対象として偶像を崇拝することを、神は、否定はしていません。大切なのは、神を感じる心です。問題なのは、偶像にとらわれる心です。
神に対する敬虔な気持ちがあるならば、絶対に、偶像を崇拝してはならないとは、言えませんね。
神は、本来言葉にも、形にも表せない存在です。なぜならば、言葉や形は、限りあるものです。しかし、神は、限りないものです。それ故に、言葉や形に現した瞬間に、神から、その本質は失われてしまいます。しかし、人は限りあるものであり、限りないものを頼るには、あまりにひ弱な存在です。ゆえに、神の本質を忘れなければ、祈りの対象として形あるものを崇拝することまで否定はしません。
神は、偶像を崇拝することを、否定も肯定もしていない。偶像は、神には無縁なものだ。
唯一無二、絶対なる神は、分かつことはできない。神は、すべてであり、どの部分を取り上げても神の一部ではあるが、どの部分を取り上げても、神のすべてを表すことはできない。
神に形を求めるのは、人である。そのこと自体を否定しない。否定したところで意味がない。偶像は、人の心にある想いを、形にした物すぎない。問題なのは、偶像ではなく。偶像に、執着し、とらわれる心だ。偶像にとらわれる心を問題にするならば、偶像をやみくもに否定するのも、すでに、偶像にとらわれているのとかわりがない。偶像を崇拝するもしないも、心の赴くままにすればいい。偶像に心がとらわれ、神の本質を見失わなければいいのだ。
祈る心が、大事なのであって、祈る対象は、問題ではない。極端な話、何でも良い。糞尿に神が、宿ると思えば、糞尿に祈ればいいし、太陽に神が宿ると思えば、太陽に祈ればいい。なぜならば、神はすべてなのであるから、その気になれば、何にでも神を見いだすことはできる。
神と人とは、一対一の関係にある。神への信仰は相対するものである。神と自分とを隔てるものは何もない。神と人とを仲介するものは必要ではない。
信仰の根本は、神を直に感じる心です。なぜなら、神の存在は、直に感じるしかないからです。祈りや、瞑想は、神を、直に感じるためにあるのです。それ故に、神は、直感でしか認識できない。
問題なのは、偶像の是非を論じることより、神の名をもって人を、支配しようとする者達の存在である。神と人との間には、何者も存在しない。神と人とは、常に、一対一に相対している。それを、忘れてはならない。
拝みたいものを、拝みたいように、拝みなさい。拝み方が悪いと、神は、人を罰したりはしませんよ。
神のみに、心服し。神、故に、心酔しなさい。なぜならば、神のみが、人を許すことができるからである。神以外のものに、許しを請えば、そのものに隷属することになり。なにものにも許しを請わなければ、結局、自らが自らの行いを正当化せざるを得ない。自らの行いが、許されなければ、人は、生きていくためのよりどころを失い。自己の依って立つところを失う。自己の依って立つところを失えば、精神はよりどころを失い、漂うことになる。神は、命の源にして、心のよりどころなのである。
故に、神のみに心酔しなさい。
偶像崇拝よりも、むしろ、個人崇拝こそ、恐れなさい。
いかなる、個人崇拝も許されない。
この世の全ての権威は、神よりいでて神に帰す。
故に、神の名の下に個人を崇拝することは、許されない。
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