2001年1月6日
神について思う
信仰とは何か
そして、信仰の効能について
信仰とは何か
何か、得体の知れない存在に対する漠然とした怖れのような感情が信仰心の源である。それが本来の信仰心である。それは生命に対する畏敬心であったり、死に対する恐怖心であったり、自然の力に対する驚異だったりする。
その怖れは、絶対的で、直観的な感情である。それが神に対する本来の感情だからである。その怖れは、自分を超えたところに存在する、絶対的、普遍的なる存在者に対する本能的な畏敬心、感情である。
その怖れの先に感じる存在を神と名付け対象化するとその瞬間に、神は相対化されてしまう。つまり、否定する事が可能な存在になる。
あなたは神を信じますかと問うこと自体、神を相対化することなのである。
神が相対化することによって、神は否定しうる存在となり、信仰は、結局、慇懃無礼な行為に変質してしまう。
信仰というのは、純粋な思いであって。生きている実感である。生きている実感というのは、生かされているという思いであり、生かしたくださる存在を肌で感じる事です。だから、対象化できる物ではない。
信仰の対象は、自分の向こう側にあるものではなく。こちら側にあるものなのである。愛も、神も、自分の外側にあるのではなく。自分の内面にあるものである。だから、信仰の対象を自分の外側に求めるべきではない。自分自身に求めるべきなのである。
神は何にでも姿を変えることができる。それは、自分の思いが生み出す存在だからである。自分が美しいと感じた時、それを感じさせた存在にこそ、神性があるのである。何かを達成したときの感動こそ、信仰の現れなのである。つまり、神は、向こう側にあるのではなく。こちら側におられるのである。常に、いつも自分の傍らにおられるのである。
それに、神は、全能な存在だからである。それ故に、何に対してもそれを神だと言うことはできる。また、神は、全体にも宿り、部分にも宿るからである。何を見ても、何に触れても神を感じることはできるのです。
信仰とは、漠然とした怖れそのものを指して言う。それは畏敬心であり畏怖心である。その怖れの源を対象化、具象化しようとすると信仰は、その本質を失い変質してしまう。
信仰とは、純粋で純真無垢な感情の迸(ほとばし)りなのです。それは、生きる喜びであり、生かされている事への感謝の思いなのである。
祈り、信じる事が、信仰なのである。
信仰の効能について
信仰というのは、無償の奉仕だといったところで、結局、現世利益を求めるのが人の常である。信仰によって人はどんな利益を得るというのだろう。
信仰する事によって何か得することがあるのか。信仰には、現世利益はあるのか。有り体に言えば、信仰には、どの様な効能があるか。
どうも、誤解があるようだ。現世利益、御利益(ごりやく)などというと我々には、どうも不謹慎に聞こえてしまう。しかし、信仰というのは現実である。その辺が哲学や思想とは違うらしい。人々が信仰にもとめるのは、高邁な理念や思想ではなくて、現実の苦しみや悩みから救われることである。それこそが、宗教の本質だと思うようになってきた。だから、人々が現世利益をもとめるのは、当然のことなのかもしれない。人々は救われたいのである。その人々の弱味につけ込む人間が問題なのである。ならば、信仰の効能も重要なことの一つに違いない。
人は、絶望し、挫折し、悶え苦しみ、最後に神に救いをもとめる。
宗教は現実である。思想や哲学というのは、どちらかというと個人の領域に属す。しかし、宗教の本質が人々の救済にあるのならば、宗教とは社会的なものであり、世俗的なものである。人間関係の生々しくて、ドロドロとした部分にこそ宗教は関わっていかざるをえない。それは宗教にとってかなり、きわどい話なのである。だからこそ、宗教家は、ストイック・禁欲的にならざるをえないし、人々は純潔や神聖さをもとめるのである。しかし、その根本は人間のエゴであり、欲であり、愛憎である。人々が信仰にもとめるのは魂の救済である。それは現実の社会や人間関係、自己との対比の上で成り立っている。人間は救われたいが故に、信仰心を持つのである。救われたいのは自分であり、神ではない。
だから、信仰には、それは、それは、大変な功徳がある。なぜならば、信仰の本質は、自己の救済だからである。それに、神は、慈悲、自愛の存在だからである。
現代病と言われるものの大部分に効果があると思う。なぜならば、現代病の多くの原因は、信仰心の欠如から着ているからである。信仰の核心は、自己である。信仰は、この自己の確立に大きく関わっている。自己の確立は、自己の内面の世界に根ざしている。自己の世界は、精神世界である。そして、善や悪の根源であり、道徳の要、土台である。その全てに信仰は関わっている。逆に言えば自己が確立されないが故に、人は迷い、悩み、苦しみのである。
それは、精神病と言われるものの多くの原因となり、心身に現れてくるのだと思う。躁鬱のような現代病の原因の多くは、心神喪失であり、自信喪失であり、疎外感であり、孤立感であり、自己喪失であり、自己の分裂であると思う。つまり、気の病である。
気の病と言って馬鹿にしてはいけない。人の気が起こす病は、万病の素なのである。気が塞ぎ、気が衰えると、生きる気力すらも奪い取ってしまう。心身を衰弱させ、精気を吸い取ってしまうのが気の病である。気力が衰えれば免疫力も低下する。集中力をなくして大怪我をしやすくなる。病にかかっても自分で治す気がなくなる。治る病も治らなくなる。心を病めば、不幸になる。生きていること自体が苦しくなる。他人に迷惑をかけるのがいたたまれなくなり、自分の居場所をなくしてしまう。陽気を失い。最後には、自分の寿命まで縮めてしまう。気の病ほど恐ろしいものはない。気の病を癒すことができるのは信仰以外にない。薬は気休めに過ぎない。気の病を根治することはできない。なぜならば、それは、自分の気の持ちよう、内面の気だからである。
それ故に、信仰によってのみ人は癒され、安楽になれる。それは第一の功徳である。つまりは、信仰によってこそ迷える人は、救われるのである。逆に言えば信仰がなければ救われないのである。
むろん、現代医学を否定する気は毛頭もない。ただ、現代医学が治せない部分に信仰があると思うのである。そして、その現代医学では治せない部分に、人間の本質的な部分が隠されているのである。気の病は自分が招いているのである。
信仰には、多くの効能がある。つまり、自己の救済、自己に関わる病には、結構な効能がある。そして、現代病の多くが自己に関わる病なのである。例えば、自己喪失や鬱である。現代病の根底には、この自己、主体性の喪失がある。つまり、信じるべきものがないから、困難な事態に陥った時、すがるべき存在がなくなるのである。
自己の喪失は、自信の喪失、疎外感、自己の統一の喪失、主体性の喪失、そして、最後には人格の崩壊へと結びつく。これらは、救いようがない。現代医学では救いようがないのである。それは根本が自己だからである。原因が自己の喪失、ないし、自己が確立できないことによるからである。人間としての中心、核を欠いているのである。要するに、自分がないのである。
現代病の多くは、信仰によってしか救えない。
傲慢、驕慢、嫉妬、妬み、恨み、虚栄心、欲望、我が儘、驕り、孤独、それが、現代病の本性である。それは、自らを直視し、自分を取り戻す以外に癒すことはできない。弱い自分、醜い自分を直視し、死にいく過酷な定めを乗り越えていく力は、信仰によってしかもたらされない。確かに、心理学的療法や薬は、一時的には、治癒ことは可能かもしれない。しかし、その根本原因が自分にある以上、自分を取り戻すしかないのである。故に、自己に纏(まつ)わる病、自己に関わる病は、最後は、信仰にしか救いがない。神を信じ、自己を取り戻す以外にないのである。
だから、人は、騙(だま)されるとわかっていても、世俗的神にすがろうとするのである。しかし、神は、万能である。見返りを求めもしないし、必要ともしていない。故に、見返りを求めるものは神ではない。
気は病である。多くの病は、気が引き起こす。気が萎縮し、気が萎え、気が縮みから、病は起こるのである。気を伸びやかに、穏やかにし、気を引き締め、充実させるものこそ、神への祈り、信仰である。気を神に向けるのである。
神を必要としているのは、人間である。神が人間を必要としているわけではない。
人間は、窮地や危機的状況に陥ると、神に祈る。神に祈ることによって平静さを取り戻し、困難なことに立ち向かっていくことができるようになるのである。これこそが、神の功徳と言わずに何を功徳と言えるのであろう。神に祈り、自分を委ねることで、人は孤独を克服し、自分の運命、特に、過酷な運命を受け容れることができる。人は神によって救われるのである。人は孤独なのである。一人で産まれ、一人で死んでいく。それが人間の定めである。
人間は、弱く、脆い。弱い人間だからこそ信仰が必要なのである。
だから、現代病には、信仰はよく効く。と言うよりも信仰による救済がなければ、現代病の多くは治癒しない。何よりも、自分を見失うことによって病気にかかるからである。
人は、悩み苦しむ。その悩みや苦しみは、場合によって、生きる気力さえも奪い取る。誰でも、投げ出したくなること、厭なこと、心配なことの一つや二つはある。信仰は、それに立ち向かう勇気を与えてくれる。
そして、その勇気こそが人を成功に導く原動力なのである。
又、信仰は再起する力も与えてくれる。失敗や挫折にうちひしがれた時、手をさしのべてくれる存在こそが神である。
だから、信仰は、経済的にも楽になる。しかし、誤解してはならない。成功をもたらす力は、自分の内にあるものである。現世利益を外に求めるから神に不満を持つ。状況を打開し、困難を克服し、成功へ導くのは、自分の力である。信仰は、その力の素になるのである。
信仰の場は、生活の場なのである。古来、宗教が大きくなる要因の一つが行動規範を規定すると言う要素である。つまり、倫理、道徳を確立することである。そして、倫理観や道徳が確立されれば、経済は盛んとなる。人々の心も生活も豊かになるのである。しかし、それは結果である。結果ではあるが、功徳には違いないのである。神に感謝し、祈りを捧げることによって人々の生活の平穏は守られるのである。
信仰は、存在することそのものである。つまり、生きることである。生きる営みにこそ信仰の真の姿がある。それが生業(なりわい)である。労働の場は、修業の場であり、神聖な場所、信仰を実践する場なのである。
それから仲間ができる。相談相手ができる。孤独から癒される。孤独に苦しむ、現代人にとって、それは、大きな功徳である。信仰心は、人々を結束させる偉大な力を発揮させる。
人は、一人では、生きられない。それなのに孤独な存在である。自己の限界を超え、人々を結束させる力をもたらすのが信仰である。
信仰の効能の最大なものは、救いである。精神の浄化、カタルシス、純化である。人は信仰によって許され、再生される。それこそが最高の功徳である。
それに、今、ここに生かされていること以上の効能はないではないか。
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