2001年1月26日

神について思う

宗教とビジネス


 世界中どこへ行っても、その街で一番大きな建物は、公共の施設か、宗教の施設である。又、最近では、広大な工場跡地を巨額な資金で買い求めた宗教法人もある。多くの宗教教団は、広大な敷地に巨大なモニュメントを建てたり、神殿を建設する。日本には、宗教団体の名が掲げられた宗教都市がいくつか見られる。元々、神社仏閣の名前が地名になっているところも多いのである。それ自体をどうこういう気は私はない。しかし、どこから、その資金がもたらされるの、気になるところではある。

 また、巷間、詐欺まがいの行為で信者から多額の金品を騙し取る新興宗教の数が絶えない。なぜ、この様な新興宗教が蔓延(はびこ)るのであろうか。

 宗教とビジネス、なぜこの対極にあるもの同士が結びつくのか。それは、宗教は儲かるからである。
 なぜ、宗教は、儲かるのか。宗教をビジネス的観点から見ると、特定多数から定期的に定収入、つまり、税金のような収入を期待できる。反対に、税金がかからない。そのうえ、元手がいらない上、仕入れも、あまりかからない。物によっては、タダである。しかも、物の品質は問わない。信心も鰯の頭からと言うように、紙切れや木の札でも効能があると思えば、効能があるのである。しかも、その効能に関しては、最初から保障する必要がない。保証書付きのお札やお守りなど見たことがない。大体、そんな事すれば、有難味が薄れてしまう。効能がわからないからありがたいのである。当たり前に、PL法などとは無縁である。工業製品はこうはいかない。製品の品質を保証した上、問題が起きたときは、補償しなければならない。こうなるともとでもいるし、保険も必要である。つまり、経費がかかる。
 更に、信者というのは、固定客のようなものである。商売であれば、ほとんど固定客でリピーターである。また、一人一人のお布施がわずかでも集まれば、巨額の金額が期待できる。しかも、信者は、言い値で物を買ってくれる。されに、賃金を要求するどころか、信者自身が、金を出してでも働いてくれる。これが一般の企業ならば賃金を会社が払ったうえ、賃金に見合って仕事だけしか働かすことができない。無償奉仕である。つまり、経費がほとんどかからないのである。これで儲からないわけがない。
 だから、金の亡者達が宗教に群がってくる。

 そして、その利権を争って跡目争いのようなことも頻繁に起こる。

 しかも、宗教で儲けようとする者達は、人の不幸につけ込む。不吉なことこそ、忌み事こそが、宗教ビジネスには、格好の材料なのである。だから、何か不幸があると金の亡者達は、神を騙って蟻が砂糖に群がるようによってくる。しかも、どんな人間にも、不幸や悩みの種は尽きない。特に、健康の事、男女の仲、人間関係(家族の事)、金や仕事の問題は、悩みの種である。人は、苦しくなると何かにすがりたくなるのが人情である。その人情に彼等はつけ込むのである。

 ただ、間違ってはならないのは、宗教ビジネスは、信仰とは無縁のところにあるという事である。神に対する信仰と神を利用したビジネスとは本質が違うのである。宗教を利用した金儲けは、宗教の方から見れば、信者の弱味なのである。信者の側から見れば現世利益なのである。どちらにしても欲得づくの問題である。お互い様なのである。双方ともお互いを損得で利用しているのである。故に、結局は同じ穴の狢(むじな)にすぎない。騙される側も騙す方も所詮は、神を利用しているのに過ぎないのである。
 金儲けの世界は、最初から神なんて関係ない世界の話なのである。だから、ビジネスが成り立つ。信仰心があったら、ビジネスなんて最初から入り込む余地などないのである。
 神を騙(かた)りながら、はじめから神とは無縁である。そこにこのビジネスの不思議さがある。神に縁遠い人間に限って神を利用して、儲けたり、だまされたりするのである。それが真の信仰の妨げになる。つまり、金儲けと信仰は本来、対極にあるものなのである。神を信じる者は、神を信じるが故に、艱難辛苦や貧しさに耐えることができる。神を信じないが故に、弱味につけ込まれるのである。

 神を信じていないから騙されもし、騙しもできるのである。神を信じないから、神を利用できるのである。神を怖れないから神を利用できるのである。宗教ビジネスには、神を商売のネタとしながら、神が存在しないのである。ある意味で商品のない商売である。故に、虚構の世界でしかない。又、虚構であるからこそ成り立つ商売でもある。実体があれば成り立たないのである。

 宗教によるビジネスは、この世の陰画みたいな世界である。つまりは、この世が逆転した世界、それが宗教ビジネスの世界である。全てが虚構であり、嘘の世界である。崇拝されるべき者が卑しめられ、賤しい者が崇められる。価値ある物が捨てられ、価値なき物が尊ばれる。聖なるものが辱(はずかし)められ、醜悪なるものが讃(たた)えられる。
 それは、この世の信仰が失われ、空疎なものになったが故に、咲いたあだ花みたいなものである。真実がなくなったからこそ虚偽なるものが生まれたのである。それは、聖なる者を崇めるのではなく、怪しく危うい者を崇めているのに過ぎない。清浄なる魂から発する意志ではなく、ドロドロの怨念と欲望の為せる業なのである。
 だから、新興宗教が作り出す神殿は、伏魔殿であり、まるで映画の撮影所のように人工的に作られた禍々(まがまが)しい建物である。しかし、その禍々しい物は、人の心にこそあるのである。
 彼等が神と崇めているのは、人間の欲望が作り出した神とは無縁な妖怪変化である。それは、富であり、名誉であり、淫欲であり、地位であり、権力であり、権威であり、快楽である。
 神の本性は、神聖であり、純粋であり、無欲であり、慈悲であり、清浄であり、崇高であり、寛大であり、豊かであり、無名である。そのことからも神を騙って金儲けを企む者は、神と無縁な者達なのである。

 哲学は、個人の営みであるのに対し、宗教は、教団となると集団、共同体の営みになる。そこには、生活があり、経済がある。それ故に、世俗的問題が入り込んでしまうのである。宗教というのは、神聖な者でありながら最も世俗的な行為なのである。それを忘れてはならない。
 世俗的であるからこそ、宗教は成り立ちうる。生々しい、人間の苦悩や欲望から目を背けたら、宗教は、宗教本来の役割が果たせなくなる。人間の救済ができなくなるからである。しかし、だからといって何をやっても許されるというわけではない。

 神の名の下に金儲けをすることは、この世における最も重い罪である。神を利用して金儲けすることは、自らの精神を貶(おとし)める行為である。

 神は、金銭目的で人を救いはしない。神は、報酬を求めはしない。なぜならば、神は、この世の全ては、神がお造りなった物であり、手に入らない物などないからである。貧しい者にこそ、神は、救いの手を差し伸ばされるのである。奉仕こそ神の精神であり、決して神は、人々を金の奴隷にしたりはしない。

 故に、神の名をかたって法外な寄付や奉納品を要求し、また、高価な商品を売りつけようとする者を近づけてはならない。なぜならば、神と最も遠い者達だからである。

 又、自らの不幸の原因を他に求めてはならない。神を呪うから、神を騙(かた)る者に騙されるのである。不幸を他人の性にするから、不幸がよってくるのである。ひたすらに神を信じ、神に祈り、自らを正すより他に、救いの道はないのである。

 宗教というビジネスは、確かに、儲かるのである。宗教を利用すれば金儲けが出きる。この事は、ハッキリと自覚しておくべきである。さもないと、宗教を利用すれば金が儲かると気がついた時に、誘惑に負けて、自分達が本来求めていた姿を見失いがちだからである。人間は、弱い存在なのである。例え、利用すれば金が儲かるとしても、自らの信仰に反する行為は厳しく戒めなければならない。さもなければ、結局神に見捨てられるであろう。

 宗教はなぜ儲かるのか。

 宗教は、不経済だから儲かる。つまり、一般の経済の外にあるから儲かる。

 現代経済学は、経済に宗教が果たしてきた役割を無視している。しかし、経済と宗教は密接な関係がある。典型が金利問題である。多くの宗教では、金利を取ることは罪悪である。その為に、長く金融機関が成立しなかった。

 我々は、宗教が果たしてきた経済的、社会的、政治的な役割を直視すべくなのである。さもなければ、本物の宗教と疑似宗教の違いを見抜くことはできない。


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