2001年1月6日
神について思う
心理学
心理学を科学同様、万能的に見るのは危険ですよね。
僕に言わせれば、世の中で心理学的問題と言われている事象の大多数が、
哲学的、倫理的問題だと考えます。
哲学的問題を心理学的問題にすり替えて、やたら、病名をつけて病人を増やしている。
コンブレックスやその原因となるトラウマが問題だと言うけれど、
コンプレックスは、コンプレックスとなる物自体が問題なのではなく、
認識する側の自己が確立されていないことが問題なんですよね。
足が短いとか、鼻が低いとか、学校を出ていないとか。
英語の成績が悪いとか、女に持てないと言うのは、
多分に、主観的、結果的、外見的なことです。
たとえ、トラウマがあったとしても、
それを克服するほどの強い意志、精神力があれば問題とならない。
最近、心理学では、なんでもかんでも鬱だと決め付けますが。
よく聞いてみると自己が確立されていないケースがよく見受けられます。
大体、鬱になる原因を心理学的に言うと、
環境の変化とか、挫折や失敗とか、災害とか、事故と言った、
外的要因、外因がほとんどなんですよね。
モラルや道徳観、価値観、人生観、世界観、信仰心、経験則といった
当人の内的要因、内因と言うのがほとんど問題とされていない。
でも、環境に適合する、もっと言えば、逆境をはねのけるのは、
確信の問題なんですよね。
確信や自信が揺るがなければ、相当の状況でも耐えられる。
それが人間なんですよ。
逆に確信が持てないから、自信がなくなるからおかしくなる。
以前は、皆そう信じていた。それが常識だったんですよ。
戦前の日本では、儒教的価値観が牢固としてあった。
その堅牢さによって自己が保たれていた側面があります。
だから、戦争という極限状態でも精神が保てた。
戦後は、その土台を徹底的に破壊してしまった。
徹底的に破壊しておきながら、それに変わる価値観を準備していなかった。
だから、戦後生まれの人間には、牢固とした価値基盤がない。
その結果、こんなに平和な世で、精神に異常をきたす。
多様な価値観なんて欺瞞ですよ。
確固たる価値観がないから多様と成らざるを得ないだけです。
否定しようにも、否定すべき価値基盤が与えられていないんですから。
だから、自己を確立しようがない。
自己が確立されていないから、
他人の間違いは指摘できても、その根拠を問われると曖昧なんです。
価値観すら、相対化している。
それでありながら、可哀相に当人がそのことすら気がついていない。
だから、相手によって価値観が変化してしまうんですね。
つまり、カメレオン状態です。
こうなると、その時々の言動に固執せざるを得なくなる。
もはやその行為自体が、精神病ですよね。
価値観が、相対化するという事は、常に、自分の価値観が揺れ動いているわけですよね。
批判したくても、価値観が相対的なのでは、批判のしようがない。
反対したと思えば、賛成してみたり、
議論している内に立場が正反対になっていたりする。
それでいて当人が気がついていない。
論点のズレも修正のしようがない。
倫理観というのは、相対的基準には成り得ない。
絶対的な基準ですよ。
先ず、後で否定しても良いから、
絶対的基準の価値観を持つことですよね。
それは、心理学や科学ではなく。哲学の仕事。
なぜならば、心理学は、相対的なのですから。
その為に、僕は信仰心は大切だと思う。
少なくとも、自殺しようとする者の心を支えている部分は、否定しようがないし、否定すべきでもないと思う。
最後に救えるのは、神のみだと私には思えますね。
カウンセリングの本質は信仰だと思うのです。
私は、鬱は、薬では治せないと思うのです。
むろん、医学を否定したり、心理学を否定する気はありません。
しかし、人の心を扱う人間が、神を信じていないとしたら、これ程恐ろしいことはありません。
自分を超越する何ものかを信じるからこそ、自分を絶対視しないことができる。
人が自分の思い通りになると錯覚したら、自分を超えることができなくなります。
それこそが、堕落なのです。
医学や心理学こそ神を必要としているのです。
信仰が大切なのです。
神を必要としているのは人間なんです。
今の学問は、
所詮、学校学問なんですよ。
決められたことしか教えられない。
儒教や仏教もそうですけれど、
まだ、孟子ぐらいまでは、儒教も活き活きとしている。
でも後は、孔子を神聖視してしまって、論語が教科書になってしまった。
そうなると、ただ、論語を暗記するだけの学問になってしまう。
仏教もただ、葬式の時に、お経を意味もなく棒読みしてありがたがっている。
それでいて、生臭坊主なんですよね。
悟りなんてありゃしない。
批判は、許されないんですよ。
だから、後世、論語読みの論語知らずなんて言われてしまうようになる。
今では、さしずめ、科学を知らない科学者ですかね。
孔子が生きている頃は、所謂、孔子塾というのも、
活き活きとした議論をしていますね。
先生に向かってぶしつけな議論ふっかけたり、
喧嘩を売ったりして、
例えば、君子も窮するかなんて、
ところが、後世になると
孔子は神様ですからね。
心理学も同様ですよ。フロイトは神様になってしまった。
そうなると、正解は、既に用意されていて、後は、試験されるだけになってしまう。
それが学校学問なんですよね。
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