神について思う

本気になれよ


昔の科学者や哲学者なんてホームレスか、よくて、家庭教師、坊主ですよ。最近は、大学があったり印刷技術が発達して飯が食えるようになりましたが、ほとんどが刑死したか、野垂れ死に。キリストやソクラテス、ガリレオ、坂本龍馬、吉田松陰が、いい例です。それくらいの覚悟がなければ学問なぬて続けられない。
科学がまだ認知されない時代、生きながら、貝殻で肉をそぎ落とされた女流科学者もいましたから。科学者も、芸術かも、哲学者も皆生きているうちに認められるなんて稀ですよ。
ルソーは、自分の子を捨てたはずです。孔子の弟子の弟子の子路は殺されて塩漬けにされた。千利休は切腹させられ、日蓮は島流しに会い。正義を貫くというのは、今、中国人が習近平を面前で説教するくらい危険な行為です。

先日、僕への問いかけは、立派な仮説に基ずく事ですよ。
だから、僕も、きちんと検証する必要があった。だから、時間がないといったのです。まず、自分が人に問いかける時はそれがどのような仮説に基づくものかまた、自分が相手にどのような負担をかけるかを自覚してするのが礼儀ですよ。そのうえで迷惑を承知で問いかけなさい。そこは、学究者は、歳も性別もなく対等なのです。自分が傷つくことを恐れていたら、学問は究められません。学問は、自分の存亡、命がけの戦いなのです。容赦なく叩き潰される。殺し合いになりますよ。

日本の大学は家元制度と変わりないですよ。習い事に過ぎない。
学問とは、戦いです。師であろうと説が違えば命がけで戦う。学問の場は道場、戦場です。一度、自説をたてたら。師といえど対等です。だから礼節が求められるのです。人を指導するというのはしんどい事なんですよ。

いづれにしても自分のなさです。
まず、自分とは何かを知る事ですね。
自己を確立知る以前にいろんな潜入感を植え込まれている。
それから自分を取り戻す事です。
そして自分の視点を見極める。そうしないと何が正しくてん何が間違っているかは判断できない。
僕は、しょせん善の本質は自己善だと思ていますから。

長い間に、いろいろな刷り込みがあるんですね。
学校教育とか、マスコミとですね。
当たり前のようにする。
しかし、何が、真実で、何が、偽かを見分けるためには、自分をまず、知る。否定できないところから、見直したんですね。
そこで、自己存在を定義しました。
簡単に言いますと自己は主体的存在で、間接的認識対象で、存在前提。そこから、理論を組み立っていたんですね。そうでないと自己の立場は説明できない。

僕は、今まで一回も匿名で情報を発信した事がありません。
お陰でいろいろな目には合ってきましたが、自分をの名前を明かさずに主張をすること自体、無意味だと思います。まず名を名乗れです。
特に日本人は、自分の考えとか、主義を明確にすることを事を嫌がる傾向がありますが、他国から見て卑劣な行為とされます。
トランプ大統領の事日本人は、やいのやいの言いますが、大統領はプラグマイティズム的傾向があるにしても、自分の論拠は明確にしています。
その論拠がこれまでの政治家と違うにしても自分の考えを曖昧にする日本の政治家とは、(共産党も含め)一線を画していると思います。
ただそうはいっても、近年では、闇討ち的な炎上とかありますし、自分は、実名で主張しても相手は、自分の名前を明かさないという事もあります。
余程注意する必要があります。
しかし、それでも、思想と言うのは、戦いです。自分の立場を秘匿して相手を攻撃するのは、やはり愚劣です。
大体、現代の批判は、底が浅い。単なる独善や思い込みの上に感情的な議論が多く。論点が不明瞭です。
中国共産党批判は、中国問題と共産主義問題の二点があります。この二点は、
似て非なるものです。要は、親中国か反中国か、親共産主義か反共かの四つの形があり、自分はいずれをとるかの明確にしなければ、論点が狂います。
自分は、先ず、中国の覇権主義、反日的な思想には、強い、警戒心を持つべきだと考えています。日本人は、基本的にお人よしになるような洗脳を教育もマスコミも行政もしてきました。つまり、侵略的な国は、日本だけであり、日本を侵略し、植民地化しようという国はないと刷り込まれています。その典型は、歴史問題です。領土問題を歴史上の事と捉えているのは、日本ぐらいで他の国は、口実に過ぎません。国際社会では、領土問題は、武力で解決するのが仕来りです。
実際は、逆です。日本を侵略し、植民地化しようとする意図を持つ国は、多くあります。周辺国のほぼ全てが領土に対する野心を持っていると考えていいでしょう。
共産主義問題、より思想的で、奥が深いので簡単にはかけませんが、やはり、自由主義体制とは相いれないものがあります。
現在の共産主義は、一国主義(スターリニズム)、全体主義、統制経済(一部市場を組み込んではいるが。)、一党独裁主義、軍国主義、覇権主義です。
これらを前提として批判を自分なりに受け入れなければ、根拠なき批判者と変わりがない事になります。

もう一つ、現在の共産主義は、無神論です。
現代日本人は、己がありません。
要するに、反体制、反権力、反権威、反戦、つまり、アンチでしかない。
アンチというのは、反対したり、否定する相手があって成り立ち、かつ、反対したり、否定する相手や対象に依存します。
つまり、自分がないのです。誰に対しても何に対しても反対。それが万年野党の在り方です。与党のやることすべて反対していればいい。しかし、自分が政権を握るとあの為体です。
自分と言う芯がないし、よって立つところがない。だから鬱病になる。
自分の意見なんて最初からないのです。要は玉ねぎの皮むきのように最後には芯がなくなる。
逆に自分が批判されると激高してしまう。
要するに、自分がない。自分がないから自分の意見なんて最初からない。るのは、反だけです。だから、一人が反対し始めると一斉に反対する。群れなんです。

折の中にいる虎をからかったからと言って勇気があるとは言いませんよ。

自己を強く確信する。それが自信です。
僕の根本思想。原点は、自己は主体的でありながら間接的認識対象と言う事です。
この世の中で唯一直接見る事が出来ないのは、自分の顔だと言う事です。この点に気が付いたのは、十八くらですかね。そこから展開し始めて、もう半世紀くらいですね(笑)。
自己は、自己を外界に投影し、外界と関わる過程で形成される。
写される鏡が歪んていれば、自分の姿も歪んでしまう。
また、間接的認識対象であるから、投影された自己の像を自分と錯覚てしまう。そして、自分を象徴するもの(地位、名声、富等)の為に自分を見失い、最悪の場合、自滅する。自己を強く確信する。それが自信です。
ですから、僕の思想は、自己中心です。自己中心と言っても個人主義で利己主義ではありません。利己主義は、投影された自分の像を自己と錯覚する事によって起こります。
つまり、自己中心思想には、個人主義と利己主義がある。
次に、絶対と相対ですね。存在は絶対です。自己存在は、絶対です。我考えるゆえにわれありは、存在証明に過ぎません。考えるでなくても、思うでも、食べるでも、恋するでもいいのです。存在は、絶対です。
しかし、存在が絶対だとすると対象を識別する事が出来ません。そこで人は、対象を分別します。その瞬間、対象の存在の絶対性は、失われ、対象は相対的となります。意識された後の世界は、相対的な世界になります。しかし、原存在の絶対性は、失われません。
その絶対なる存在に自己の存在を重ねます。そうすると自己の存在の安心立命が確立します。自己を超越し、自己の安心立命させるのが神です。
僕のいう神とは、人格神ではありません。存在そのものを指します。
つまり、神とは、善悪、分別を超越たぜったなる存在です。この様な神は、唯一です。そして、自己も唯一の存在です。
唯一の神と唯一の自己と対峙する事で、真の信仰が得られるのです。
私の信仰は、自己と神とが一対一の関係しか認めません。そして、人は、神の前に平等なのです。



要するに、外界との正しい関わり方なんですよ。
僕にとって神は、全てを許されている。そういう存在ですね。
赦していないのは、自己。なぜ、自分を許せないのか、そこが問題なんですね。

私は、いま生きているというのは、否定しようのない事実。絶対なんです。
つまり、自己は、確か存在する。この確かな存在こそ信じるのです。

熱いと感じ、痛いと感じる自分が確かに存在する。体をまさぐれば、自分が生きている事を感じられる。それこそが絶対なのです。
その自分と対峙、自問自答する。自分を生かし、自分を存在たらしめている者は何かと。そうすると、自分を生かし、存在たらしめている関係が見えてきます。
その時、己とは何かを知る事が出来ます。それが第一歩です。己を活かし、存在たらしめる存在に感謝し、悔い改められれば日々、確信をもって生きられます。
自己は、肉体をも超越している。肉体は借物に過ぎません。欲望からも解放されます。愛こそ本質であり、性は欲です。愛されたいと思うのは、幻想。愛するのが主体です。
透徹した目で、自分と世界とのかかわりが見えれば、己の幻影から解放されます。その時、真の自由が実現するのです。
我々は、神の祝福によってこの世に生まれてきたのです。

僕にとってこの世の出来事は、自分の行為の反映でしかないのです。
世の中を正すのは、自分を正す事でもあるし、自分を正す事は、世の中を正す事でもある。
常に、作用反作用の関係にある。
生きる事は、自分探しの旅だし、修行でしか僕にとってはないんです。
世の爲は、自分の為。自分の爲は世のため。
貴方とこういう関係を持つのは、自分の為でもあるのです。
だから感謝、感謝。

八月十五日は、終戦記念日。僕は、終戦から八年たって生まれた。
だから、一面の焼け野原と言う記憶はありません。ただ、自分の一生学校には、焼け跡が残っており、向かいの家は、三世代にわたって全滅し、空き地となっていたことは記憶している。
戦後、私たちの親は、一面の焼け野原、世界中が反日と言う逆風の中で、餓死者までだして今日の日本の礎を築いた。
誰も助けてくれない、世界中が敵という中で、やらなければ、生きていけない。やらなければ、本当に国を失うという、自分たちが稼がなければ、家族を路頭に迷わすという一念で、多くの中学生は、故郷を捨て出稼ぎに出て、家族の生計を支えてきた。
誰も助けてくれない。誰も教えてくれない。自分の力で生き、自分たちの力で家族を養っていかなければない。その覚悟が、あの危機を乗り越えさせたのです。自分の頭で考え、自分の足で立ち、自分の人生に責任を持て。それが先人たちの教えです。
怖いのは、できる時に何もせず、無自覚なままに歳をとり、気が付いた時には遅く、自分に挑む気力さえ失い朽ち果てていく事だ。
戦後の日本を再建した人たちは、それでも若かった。若い時に自分の力を出し切ったのです。だから、歳をとっても活力を失わない。
気位だけでは、虚しくなるぞ。若いうちに全力で自分の限界に挑戦し、打ちのめされて己を知る。恥はかいて知るものだ。いつかいつかと言ううちに歳をとり。自分の力を発揮する事が出来なくなると若者を腐らせる事ばかり考えるようになってしまう。俺は、そのような年を取りたくない。ただそれだけで、今も足掻き続けている。

一度や二度挫折したからなんだ。誰も認めてくれないなんて甘ったれるな。誰も認めてくれないのなら、認めさせるまでだ。
いまなら、まだ、チャンスがある。なりふり構わず、挑戦しろ。今しかない。
今諦めたら、次はない。今できない事を十年後、二十年後にできるようになると思うか。今、やるから、十年後、二十年後が信じられるのではないか。

誰かを当てにしている限り、自分の限界は、超えられない。
我々は、頼りたくても、教えてもらいたくでも、誰もいなかった。
だから、昔の親たちは、やればできるよと、目を瞑って突き放したんだ。
いつまでたってもパパ、ママではないだろ。
自分たちが必要だと思わないのなら、予算など必要ない。
無計画で、軽装備で、冬山に挑んだら、結果は、子供でも分かる。それで遭難しても救助は当てにするな。
自分で書いた地図だから自分で道筋を確かめる事が出来る。他人が書いた地図が間違っていたとしても他人を責められると思うか。他人の書いた地図を鵜呑みにした自分が悪いのだ。
地図は、自分が迷わないために書くのだ。他人の為に書くのではない。
先人は、地図なき道を歩み、自分達で道を切り拓いてきた。それは教わろうとしても教われない。

靖国に行ったらいいよ。
二十歳前後の若者が、自分とは何かを問い続けて遺書を残して逝った。
血を吐く思いで書いた遺書だ。
彼等は、そうしなければならないからそうした。
自分の力で生きていかなければならない。なりふり構わず。それが現実なのだ。その現実に気が付いた時、人は自分とは何か。自分を直視しなければならなくなる。
ただ、残念なのは、多くの人は、生きられないという現実を突きつけられて初めて、逃れられない状態になってはじめて、自分とは何かを考え始める。しかし、多くの場合、手遅れなのだ。

皆が必要だと思わないなら予算なんか作ったところで意味はないよ。
必要だと思った人間だけが作ればいい。
必要だと思う人間だけで会社をやっていけばいい。
誰かが、作ってくれるとか、お仕着せだと思うならやめた方がいい。自分たちの為にならない。子供じみている。自己満足する為に描いた絵なんて何の価値もない。児子の戯れに過ぎない。
予算は、会社の道しるべ。自分たちが迷わないようにする為に作るものだ。いい加減に作られたらかえって道に迷うだけさ。

やらなければ生きていけない、家族を養えないと本心から思っていたからやってきたんだ。よく親父に言われたよ。できるできないの問題ではない。やらなければ生きられないんだろ。ならばやれよと。
理屈ではないんだ。現実だよ。もうすぐそこまで、自分の足で立っていかなければ、一歩も進まないという時代になるさ。
助けてくれる人は、誰もいない。
奴隷になるのは、植民地なるのは嫌だ、戦うしかないと全国民が思ったから、子供だって武器をとったんじゃあないか。
戦後、何の苦労もせずに繁栄を享受した者たちが戦死した人たちを犬死だったなんて言えるか。
家族の為に、戦う事を忘れたら、奴隷になるしかない。奴隷は、他人の持ち物で、自分の子供だって金で売られていくのを防げない。
日本人としての誇りが許さないから武器をとったのではないか。
恥を知らぬ者、恩を知らない者は、人でなしだ。
独立を守るために、自律を守るために、予算を作る。

自分たちが必要だから予算を作るのだ。それを忘れるな。銀行の為でも、メーカーの為でも、税務署の為でも、取引先の為にでもない。自分たちの為に必要だと思うから予算を作るのだ。
見せかけの予算なんか作るな。

この会社を創業した当時の連中は、それこそ、何にもないところ、ゼロから始めた。プロパンと言っても誰もわからないで、駅からパンが届いたから籠を持っきてくれと言われたという時代だからね。
確かに当時の連中は、学はなかったけど、古くなった湯沸かしを毎日、仕事が終わった後バラシては組み立て、ばらしては組み立てして自分なりに勉強してきた。
彼等は、やらなければならないから、生きていけないから、必死に食らいついていったんだよ。誰も教えてくれないからな。仲間が競って研鑚した。それでそれなりの技術を身に着けていった。それに比べは、ずっと恵まれている。足りないのはハングリー精神だよ。どこかで何とかなる。誰かが助けてくれると甘えてはいないか。
会社だって老朽化する。建て替えなければならない時が来る。今がその時だよ。時代に合わなくなり、臨機応変に動かなくなったら、思い切って建て替えればいいだろう。自分たちの手で…。自分たちの手でできなければ、どこかの会社のように外人部隊が来て、植民地化していくんだ。自分から、隷属化したいというのならば、勝手に奴隷になればいい。だけど、俺はまっぴらな事だ。
俺は、血の一滴まで日本男児だ。何もせずに自由を失うくらいならば、自分の手で変えてみせる。それが心意気という者だろうが。
それとも恥知らずの生き方がしたいか。自分で決めろ。
いつまでもうじうじぐずぐずしてるな。

男とか、女とか、年齢なんて関係ないよ。
やる気があって、力がある奴。未来が信じられる奴。チャレンジ精神のある奴で、会社なんて自分達にいいように作り変えればいいよ。
やる気があって、力がある奴だけ残ればいいの。
組織なんて人の為にある。人に併せて組織なんて変えればいい。
間違っても、やる気がない癖に口ばかりの奴に引きずられる事はないよ。
向上心さえあれば、やる気さえあれば、まだまだ、可能性はあるさ。
やればできるよ。やる前に諦めるな。一戦も交えずに白旗を上げるな。
もっと猛々しく。もっと獰猛に成れ。


駄目な上司は、何かと言うと、経験がないとか、未熟だとか、甘いという。
当たり前でしょう。初めてなんだから、経験がないのも、未熟なのも、甘くなるのも。そんな事で臆病にするなと言いたい。
最初から、ベテランも、プロもいない。誰だって最初のうちは、経験が浅いし、未熟だし。
僕は、甘いという叱り方が一番嫌いなんだ。
ただ、甘いというのでは、叱られた相手は、どうしていいかわからない。甘いと叱るならば、どこがどう甘くて、どこをどうすればいいのかまで教えるべきだ。
教えるというのは、相手があってする事。無論、経験しなければ解らない事は、経験させるしかない。
いつまでたっても畳の上で、水泳の教本ばかり読んでいる奴は、船に乗せて沖に出て、海に放り込むしかない。
泳ぎを教えるという事は、そういう事だ。その代わり。最後まで責任を持つ。海に放り込んで自分だけ戻ってきたんでは単なる犯罪である。

あなたは名前があろうとなかろうとあなたは存在する。生きている。この事実から目を背けてはいけない。
あなたの肉体に貴賤はない。肛門だから汚くて頭だから尊いという貴賤は対象側にはない。あるとしたら、あなたの意識の側にある。
自分にとって何が正しくて何が間違っているかを判断できるのは、あなたしかいない。そして、あなたの判断、行動に責任を持てるのは、あなたしかいない。最終的には責任をとらされる。なぜなら、自分は騙せないし、誤魔化せない。自分の目は常に自分を見ている。その目こそ、神の目です。
自分の行為からは逃れられない。自分の行為を許せるのは、神のみ。ただ神は、悔い改めれば常に許して下さる。悔い改める事が出来ないのは自分。
自分と言う存在は、完全無欠。例え、目が見えなくなっても、腕がなくなったとしてもあなたが生きているという事実は、全く変わらない。あなたの存在は、常に、完全無欠で絶対。
この生きているという、存在しているという事を保証している存在が神。故に、神は唯一で絶対。神が唯一で絶対だから、あなたの存在も唯一で絶対である事が保証されている。
あなたは、あなたとして尊く、完全無欠で、絶対なのです。
この様な自分は、今しかなく。過去は、過去。今最善を尽くして生きる。それしか自分を信じるすべはない。
あなたは、あなただからいいのであり、他と比較しても意味がない。なぜなら、あなたは、あなたにしかなれないから。あなたに代ってあなたの人生を生きる事のできる者はいない。
あなたは、全世界、全宇宙でただ一人の存在。
親父が昔よく言っていましたよ。痛いのも、辛いのも自分持ちだからな。代ってやることはできないからなと。それが自分なのです。
だとしたら、もっともっと自分を愛しなさい。自分を大切にしなさい。自分の嫌なところ、欠点も丸ごと受け入れ、あなたらしく生きる事です。
自分を惨めにするのは自分。自分に誇りを持つのも自分。自分の行為に責任を持つのも自分。
ただ、自分で自分を許す事はできない。だから、神に許しを請い悔い改めるのです。そうすれば、神は、いつでも即座に許してくれます。
僕の神は、許し、慈悲深い神です。自分を許せないのは自分です。
自分の頭で考え、自分の足で立ち、自分の力で生きる。それが自分です。

勘違いしないでくださいね。神は、あなたにとって唯一で絶対なのですからね。あなた以外には関係ない。だから、神とあなたとは、常に一対一。僕は、僕で神と一対一。そうでなければ、神は不純になる。この関係を崩すとあなたをゆるすものがあなた以外の者になる。
あなたは、あなたとしてこの時、この時、自分が正しいと信じた事に従って最善を尽くす。もし過ちに気が付いたら、神に懺悔し、許しを請い、悔い改める。ただ、それだけです。ただそれだけで自由になれる。
それが僕の哲学です。信仰です。ですから、僕は信仰を他人には、強要しない。ただ、自分の魂を浄化し、常に自信をもって生きるためには、僕にとっては信仰しかなく。それは全人類の救済なのでしょうね。自分で自分は許せない。自分を許せるのは神のみ。心から悔い改める事が出来れば、神はどのような事でも許してくれる。なぜならば、神は、我々を生かしてくれているから。この様な神と自分との間には、何ものも存在しない。神と自己との間に何者かを介在させたら不純になる。
怖れるべきなのは、神ではなく。自分の傲慢、己の影。
神ではない。神は、慈悲。神は愛。勘違いしないでくださいね。神は、はるき君にとって唯一で絶対なのですからね。はるき君以外には関係ない。だから、神とはるきくんとは、常に一対一。僕は、僕で神と一対一。そうでなければ、神は不純になる。この関係を崩すとはるき君をゆるすものがはるきくん以外の者になる。
あなたは、あなたとしてこの時、この時、自分が正しいと信じた事に従って最善を尽くす。もし過ちに気が付いたら、神に懺悔し、許しを請い、悔い改める。ただ、それだけです。ただそれだけで自由になれる。
それが僕の哲学です。信仰です。ですから、僕は信仰を他人には、強要しない。ただ、自分の魂を浄化し、常に自信をもって生きるためには、僕にとっては信仰しかなく。それは全人類の救済なのでしょうね。自分で自分は許せない。自分を許せるのは神のみ。心から悔い改める事が出来れば、神はどのような事でも許してくれる。なぜならば、神は、我々を生かしてくれているから。この様な神と自分との間には、何ものも存在しない。神と自己との間に何者かを介在させたら不純になる。
怖れるべきなのは、神ではなく。自我、己の影。
神ではない。神は、慈悲。神は愛。

もう一つ重要なのは、不完全なのは意識なんですよ。
存在は、絶対ですけど、それでは、対象を識別できなくなります。
識別をする為には、物事を区別します。区別した瞬間、存在の完全性、絶対性は、失われ、相対的になります。そして、全ては不完全になります。
あなたという存在は、絶対なんです。でも、〇×と言う名前を付けるとその瞬間、あなたの絶対性は失われます。他人の区別し、比較されます。でも、あなたの全てを言い表す事はできません。あなたに対するかんがえかたも、とらえかたも、不完全なものになります。
でもそれは、認識の問題で、あなた自体の存在が不完全になるのではありません。
自分は自分なのです。ただそういう自分を知るためには、鏡が必要なのです。鏡を見て自分を正していく。でも、その鏡が歪んでいたら。だから、自分も鏡も正していく必要があるのです。
なんどもいいます。あなたはあなただからいいのです。素の自分を受け入れ、愛する事です。ただ、善悪の基準は不完全で、相対的です。だから、過ちを犯すのは当然です。問題は、過ちに気が付いた時です。その時自分で自分が許せなくなったらお終いです。だから、神と対峙し、神に許しを請うのです。
人は神にはなれない。あなたの存在が不完全なのではありません。あなたの価値観や意識が不完全なのです。そして、これは未来永劫、完全なものにはなりません。善悪の価値観は不完全で相対的です。ですから、人は過ちを犯す。それが大前提です。人は顧みて、悔い改めながら、その時その時、神を信じ、最善を尽くして生きる。それしかないのです。そして、自分の魂を浄化し、少しでも至純な存在に近づく。だから、僕は生きること自体が修行だと考えています。


禅の教えに、池に石を投げ入れると波紋が広がって池の水に映った月の影は、乱れる。水面の月影が波紋で乱れても、月そのものに変わりがあるわけではない。
なぜ、水面の月影が乱れたからと言って驚くのか。それは、月そのものを忘れているからだと。

何が一番難しいのかと考えましたよ。苦しみましたよ。
なぜ、こんなに、苦しくて、辛いのかってね。
なぜ、信じられないのかって。その時ふっと思ったんですよ。
信じないんではなくて、信じている自分が信じられないんだと。
相手を許していないのではなくて、自分が許せないんだと。
人を赦す事は難しい。しかし、それより難しいのは、自分を許す事。信じる事。まず自分の過ちを認めなければならない。これが辛い。死ぬほど辛い。認めたら、それを改めなければならない。これも辛い。でも、それが出来たら、自分が囚われている呪縛から自分を解き放つ事が出来る。それが真の自由です。人と比べて劣っているからどうなんですか。人に自分が劣っているのは、自分が許せないから苦しいんです。嗚呼、この人は、私よりこの点で優れていると認め感動できたら、どれほど楽か。劣等感に囚われているのは、自分なんです。自分が許せないからです。
その事に気が付いたんです。じゃあなぜ、自分を許せないのか。それは、自分の限界ですよ。自分で自分を許したとしても、それは許した事にはならない。だとしたら、自分を超越する何者かを信じるしかないじゃあないですか。そうしなければ、自分を許す事が出来ない。自分を心底信じる事はできない。
だけど、それを世俗的なものや他人に委ねるわけにはいかない。壊れてしまうものや自分を裏切るもの、不純なものに委ねたら、今度はそれに囚われる。地位とか、名声とか、愛とか、富とか。偶像とか。そんなものに委ねる事はできません。
それで、僕は、神と対峙し、自分の行いを一つひとつ顧みる事にしたんです。そして、自分が間違っていると思う事があったら、それを神だけに打ち明けて、悔い改める。それしかないんです。


神とは鏡です。
自分の真の姿を映す鏡。神道のご神体は鏡であり、神道は、偶像を崇拝しません。僕は、何々教と言う宗教は信じませんが、神道は綺麗な宗教だと思います。
神は言葉でなくて形として表します。
神は、世界そのものです。宇宙そのものです。神とは生命です。
つまり、はるきくんをはるきくんたらしめる存在。
はるきくんを生かしている存在です。僕は、生きとし生きる者は、神によって生かされているのだと思うのです。
美しいと感じる心。その源に神はおられる。悲しいと感じるこころの源に神はおられる。何が、美しと感じさせるのか、哀しいと感じさせるのか、不可思議です。その不可思議な存在が神です。美しいと感じた時、ああ自分は、生きている、生かされていると感じた時、そっと手を合わせて感謝する。それだけで充分満たされるのです。
夜、ひとり、寂しくホトホトと涙が出てきた時、その暗闇の向こうに神の息吹を感じて救われるのです。それが神です。
悔しくて、辛くて、苦しくて、どこにもぶつけようのなくなった時、神は優しく自分を包み込んでくれる。
自分の過ちや醜さに気が付き、あるいは、誰も、俺を認めてくれないと憤り、人を妬み、恨み、憎み、自分に絶望した時、その何もかも承知の上で許してくれる。それが神です。
神は、希望です。絶望の淵から救い出してくれる存在。それが神です。

神は、貴方にとって貴方が存在する根本原因です。
貴方がいくら自分を虐げ、否定しても、貴方がいま生きている事を否定する事はできない。生きている証こそが神の本質なのです。
前を見る。自分を信じて前を見た時、神は、貴方を導いてくれるはずです。
神は、わかるのではなく。感じるのです。なぜなら、言葉は相対的で不完全だからです。
百万言費やしても愛の本質を言いつくす事はできませんが、人を愛すれば、愛の本質は体得できるのです。神とはそういう存在です。

神は救いです。神は許しです。
感情に任せて心にもない事をいって相手を傷つけた時。
人の成功が妬ましくて自分が惨めに思えた時。
相手の優れたところを素直に認められなくて自分を卑下した時。
誰も俺の事を認めてくれない、愛されていないと投げやりになった時、
自分の醜さに気が付いた時。言い訳をして自分に嘘をついた時。
辛い事、苦しい事から逃げ出そうとした時。
自分の弱さから目を背けようとした時。
受け入れがたい自分や現実をどうしても受け入れなければならなくなった時。
神は、そっと微笑んでくれるのです。
そのままでいいんだよ。はるきは、はるきでいいんだよ。
ただ、自分がそれは間違いだと悔いたなら、それを改めれば。遅くないよ。生きている限り、遅くないんだよ。
だから、自分に素直になろうね。自分に正直になろう。自分を信じよう。
その時、神は降臨される。
はるきくんは神に祝福されてこの世に生まれたのだから。
神に愛されていないのではなく。神の愛を拒んでいるのは、自分なのです。
それが自分。

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