神について思う

いつの日にか


神は、聖人君主を望まれているわけではない。
愚直に、真っ正直に、誠実に生きている人を愛でるのである。
神が嫌うのは、傲慢な人間である。
真剣に生きようとしている者を、神は、いつも見ていて下さる。

欲望は、生きていくてために欠く事が出来なものである。
欲望があるから人は、向上する。
しかし、欲望は、両刃の剣でもある。
制御できなくなれば自分をも傷つける。

人は、人として生きればいい。
人は神にはなれないのである。

この世に不完全な存在はない。しかし、完全である存在を人は識別する事はできない。
故に、完全な存在を分かつ事で、人は、分別を持つ。
しかし、分別を付けた瞬間、意識の上で存在の絶対性は崩れ、不完全なものなる。
故に、人間の意識は、最初から不完全で相対的なのである。
それは、人間の認識が不完全なのであり、相対的なのであって、対象の存在が不完全なのでもなく、相対的なのでもない。
存在は、完全であり、絶対である事に変わりはない。
人は、分別がなければ生きられない。
しかし、分別をもった瞬間、人の認識する世界は、不完全で、相対的なものに変じる。
神は、全てを超越した存在。
神は無分別である。神に貴賤はない。善悪もない。真偽もない。是非もない。
神は、超越者であり、絶対的存在である。
善悪、分別は、人の側の問題である。
人は神にはなれない。ただ、ただ、信じ受け入れるだけである。

神は、誠心誠意生きる事を望まれている。
神に挑戦したり、神を超越する事など望まれてはいない。
現代人は、神を忘れ。ただ、自分の力を持て余しいているに過ぎない。
人は傲慢になった。その報いは人が受ける。自業自得である。


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