神について思う
神の沈黙に耐えられなくなった時
人は、神の祝福によってこの世に生をうける。
いざとうい時、神は沈黙をする。
イエスが十字架にかけられようとしている時、十字架にかけられた時、神は沈黙をした。
イエスの偉大さは、それでもなお、神への信仰が揺るがなかった事である。
神の言葉は、聞くのではなく、感じるのである。
遠藤周作は、「沈黙」という作品の中で、沈黙に耐えられなくなったことを告白している。
しかし、神が沈黙を続けることで信仰を失う理由にはならない。
人は、いずれは死ぬのである。
死に際してなぜ、神は沈黙すると罵っても、死から逃れられるわけではない。
助けてくれないと呪っても不死になれるわけではない。
神に向かって死ねることが喜びなのであって、神への信仰を失えば、死は絶望でしかない。
神への信仰は望みなのである。
信仰は希望である。
神の沈黙に耐えられなくなり、信仰を捨てたら、神を見失う。
神を見失った時、人は希望も失うのである。
信仰は希望なのである。
死を恐れたりはしない。神のみを私は恐れる。
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