神について思う

死後について


死後の世界についての質問ですが。

非常に難しい質問です。
非情難しい。でも、とても本質で肝心な事です。

この問題は哲学的というより神学的問題です。
哲学者という立場でいえば、明確な回答を持ち合わせていません。なぜなら、私はまだ生きているからです。人は皆必ず死ぬというテーゼは矛盾しているんです。なぜなら、生きている人は、まだ死んでいないからです。死という前提は生き返らないという事ですから、蘇生したものは死んではいない。ですから、死後の世界というのが仮あったとしても実証する術がない。
この様に確かめようのない、不確かであやうやだけど人生の本質にかかわる事を形而上というですね。そして、哲学は、この問題を探究することを目的としていますが、では答えが出たかというと出ていない。だから哲学が成り立ているともいえるんです。

科学は、この形而上的世界に踏み込まないという事を前提としている。

そして、それに答えを出すとしたらそれは神の領域に入る。
私は、自己存在の絶対性を言うのです。自己というのは、主体的存在でこの主体性は、否定できない。そして、その主体性は、今この時に普遍的で絶対的になる。そして、この自己の普遍性を裏付けているのが神ですね。神に対する信仰によって自己の存在もまた普遍的な存在となる。

これがいわゆる一神教徒の論理です。そして、根本は信仰になる。この信仰に対する考え方は、日本人には理解できないかもしれませんが日本人以外というか一神教徒にはごく当たり前な事なんですね。
つまり、自己の主体性の普遍性、不滅性を保証するのは信仰以外にない。だから、神を信じる者だけが救われる。

自分も神を信じます。自己を超越する何者かを信じないと主体性も客観性も立論できないからです。

答えになっていないかもしれません。ただ自分は思うのです。主体性も何もそして、死後の世界があるかないかも結局自分が何を信じるかによって変わる。それが主体という意味なんだと…。

その時、自己を超越した存在を人は必要とする。

人は、幸せな時、神を侮り。
不幸になると神を罵る。

しかし、神は、神だ。
神を、必要としているのは、人間であり、
神は、人間を必要としていない。

神を否定するものは自らを神にする。

今のところ自分が行きついたのは、そんなところです。

言われる通り。ご質問は永遠のテーマですね。


現在主流になっているのは、一部の脳学者たち有名なのは、「養老孟司」ですけれど、唯脳主義ですか。全ては、脳が作り出した世界という考え方ですね。でもこれも極論ですよ。
日本人は、科学でも、医学でもなんだかすべてが解明できているかのような教育を受けてしまう。
先日もテレビ番組で日本では宇宙の始まりは無でビックバンが資源だと教えているのに、アメリカの教科書の天文学の冒頭、この宇宙を創造したのは神だと書いてあるとしたらゲスト出演していた女優が「えー科学の教科書でしょ」とさも見下したような言い方をしていましてが、それこそ不見識を露呈したようなものです。
ビックバンだって一つの神話ですよ。仮説にすぎない。絶対化してしまったらそれこそ科学に反する。

自分も大学で物理学をまなびましたが、君は、プラトニアンかアリストテリアンかと担任に問われたことがあります。要するに、君は、先験的な世界が存在するかしないかというのですね。
何が言いたいのかというと科学の先端では何も本質的な事が解明されているわけではないという事です。

科学というのは、先ほど申した形而上な事は、一応棚上げして、確証の持てることを足掛かりにして議論を進めようという事です。
何もかもが意識が作り出したというのは言い過ぎなきがします。だからこそ科学は、キリスト教文化圏で発達したのだと思うのです。自己を超越したところに存在する何者かを信じるかどうか。それによって自己の持つ限界を超える。それを忘れた時、人は傲慢になり、原爆だの生物化学兵器などを作り出すのですね。

神の力を手に入れたと錯覚していますが、仮に、神の力を手に入れたとしても神の魂を手に入れたわけではありません。神の力を手に入れても神の意志を自らのものにしなければ、神の力を制御できずに破滅するだけです。

唯脳主義も科学者の傲慢に過ぎないと私は思います。


自我の問題は、自己存在に私は、定義をおいています。
自己は主体的存在である。しかし、同時に自己は間接的認識対象である。
自己は、自己以外の対称を直接的に認識する事が出来るが、自己は直接的に認識できないで自己の外に対象を反映することで間接的に認識する。外界に対する働きかけによって自己像をとらえる事が出来る。唯一直接見る事の出来ない顔は自分の顔であり、自分の顔は何らかの外界の対称を通して認識する。
自己に対する意識というのは、常に外界に依存し、制約を受ける。故に、外界が歪んでいれば、自分の姿も歪み。もう一つは、反映された自分の姿を自己本体だと錯覚する。そうする事で自己の主体が揺るぎ、歪み、最悪な場合、自己を喪失する。外部に投影された姿に固執した時時価が派生する。
自己を写す基準には、地位だの、名誉だの、富、名声などですね。これらの者は、麻薬の様に時には、人の精神をむしばむのです。救いは、素の自分を信じる事、真の自信を持つ事ですね。
素の自分を信じるとしか言いようがないですね。



後重要なのは、存在は前提という事です。
否定しようと、肯定しようと存在する物は前提なんです。



僕は、何らかの精神世界はあると感じています。
いずれにしても最後には、神と一対一に対峙する。

先ほど言いましたが私の言う神とは、一対一の神なのです。
私と神との間には何物も挟まない。

最後には純なる魂となって神と一対一に対峙する。
生きるという事は、その時のための準備であると私は思っています。

死後の世界があるかないかよりも、自分が自分として純粋に生きられるかどうかだと思っています。
純粋に生きれば、おのずと救われるのだと。そこから先は神にお任せするしかない。
確かに、この世の中の出来事は、不条理です。
でもその一切合切を神は承知しておらせ、最期に全てが生産されると私は信じて生きています。

私は、常に、神に問い、神に祈る事にしています。
だから信仰としか言いようがありませんね。
僕は、僕が信じている事、死後の世界を含めて、信じるしかない。他人がどうこう言っても信じるしかない。
そして、私と神との間に何物も挟まずに対峙する。それが僕の答えですね、


私は、今の自分の生き方が次の世界を決めると信じています。
自分の善とするところによって裁かれ、自分が悪とすることによって裁かれる。
人殺しを善とするものは、人殺しの世界へ行くであろうし、嘘つきは嘘つきの国に、憎しみを善とすれば憎しみの国に、虚栄を善とすれば虚栄の国に、愛を善とするものは愛の国に行く。
死は、今の生き方を純化した先にあるのだと考えています。肉体という制約を失えば、己の過去の生き方がすべてを支配する。

だから、神は善悪を超越した存在。人殺しをしようとしまいと神には関係ない。人殺しを善とするものは人殺しの国に生まれかわるだけです。己が犯した罪は、己が償わなければならない。
生きているうちに悔い改めれれば別です。神は、いつでもどこでも許してくださる。
自分を許せないのは自分であって神ではない。自分を許すためには、自分が犯した罪を認め、悔い改めるしかない。
悔い改める事が出来ないで死んでしまえば、死んだあと自分の罪によって未来永劫苦しめられるだけだと私は思います。
だから、私は常に、自らの生き様を顧みて神と一対一に対峙し許しを請い祈るのです。
人は自らが善とした国に行くのです。善とは、自分が生きざまにしかない。だから、今、自分の善を尽くすしかない。
過ちに気が付いたらすぐに悔い改め、神に許しを請う。そういう生き方ですね。
それが自分の思い描く次の世界で。
これは信仰であって、哲学ではありません。








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