神について思う

仲 間




結局、これから時代は、家族なんてあてにならない。
歳をとって厄介な存在になれば、結局、どこかの施設に預けられてしまうのが落ちである。
年寄りなんて足手まといになるだけである。
先があるわけで見ないし、期待もできない。
独居老人も孤独死も増える一方であろう。

そんな家族を当てにしても仕方がない。また、そういうように育ててしまった。
行政だって問題とするのは、介護施設だの、介護制度ばかり。
人の気持ちなんて一向に顧みようとしない。倫理とか人生観なんて関係ないのである。
それが近代的だとする。人情だの、恩だ、義理など何の意味もない。
それが、現代人の典型である。養老猛のような、脳科学者に言わせれば、生きるなんて生理現象の一種にしか過ぎない。

だから、最後は仲間なのだと思う。
お前に死に水をとってくれと言える仲間なのである。
なぜ生きているのか、それは、志を同じくし、共に生きてきた仲間である。
どんなに貧しくとも仲間に見捨てられるような生き方だけはしたくない。

なぜ生きているのか、その答えは仲間にしか見いだせない気がする。

仲間というのは、友というのとは、また違う。
なぜなら、仲間には、仲間に対する責任や義務がある。
だから、仲間に対する裏切りや背信は許されないのである。

心を許し、信じあえる仲間。それこそが掛け替えのない存在なのだと私は思う。
仲間が一つとなれるところに神はおられる。
それが信仰である。


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