神について思う
天
天不言。(孟子)
天は何も言わない。
上天の載(こと)は聲(こえ)も無く臭いも無し。(中庸)
天とは何か。
天は不思議、不可思議な存在である。
天は、顕れであり、象である。
天も神も何も言わない。
ただ顕わすだけである。
不思議な存在とは、思いもつかない、議論する事もできない、説明もできない存在だという事である。
天は、所与も自明な存在である。
天は至極当たり前な事象として顕れる。
しかし、ごく当たり前な事象という以外、意味がない。
奇跡というのは、超自然現象を言うのでも、超能力を言うのでも、何万年に一度といった稀有な現象をいうのでもない。
ごくごく当たり前な事として当たり前に信じている事柄を言う。
朝太陽が決まったように上り、夕には沈む。水は高きから低きに流れる。物は下に落下する。
明日が来ることを信じられる。
生きるためには、食べていかなければならない。
生きるためには、睡眠が必要である。
生きるためには、排便が必要である。
人は、生まれ、そして死んでいく。
この様な事が自然に信じられることこそ奇跡なのである。
しかし、それは確実か。
天も、神も何も言わない。
天が顕わす事は、奇跡である。
神の行いは奇跡である。
奇跡というのは、海が裂けたり、天地がひっくり返ったりするようなことを指すのではない。
予測できると、予知できると信じられることこそ奇跡なのである。
どうすれば、子供を作ることができるかを知ることはできる。
しかし、子供を作る事を知ったところで、生きる事の意味を知った事にはならない。
生きる事は不可思議なのである。
子供を作る事を知ったからと言って神を超えたと思い込むのは、人の驕りである。
その驕りから人は堕落していくのである。
大切なのは、子作りの仕方にあるのではなく。
子供を慈しみ育てる心根にある。
そして、天の、神の奇跡を証明するのが物理学である。
神を蔑ろにすることは物理学の本意ではない。
それは科学者の驕りである。
天は根源である。
万物は天より生じ、天に還る。
天は混沌としている。
天は、唯一である。
天は、絶対である。
天は実体があるだけである。
天は唯一で、絶対的な超越的存在である。
天は全体であり、部分である。
天は気を通じる。
天は神に通じる。
神は、天を天とする存在である。
神は、天の根源である。
神は不可思議な存在である。
神は隠れた存在である。
神に象はない。
天には、命がある。
命とは働きである。
その働きは、神よりいずる。
天命は、神に発する。
天の働きに共振共鳴した者に天命は下るのである。
それが使命である。
命は生きる働きでもある。
天命によって人は生かされるのである。
それは、自己の内なる命が天の命と共振するからである。
その時、人は、自分が天に、神に、生かされている事を知るのである。
生きるための働きそれが生命である。
命には、命ずるという意味もある。
命ずるには、言いつける。強制的に実行させる。また、役につける。権限を与える。そして、名をつける等の意味がある。
天から与えられた生に心をつけたのが性である。
心をもって生きるそれが性である。心は、一人一人違う。
故に、生から性質の違いが生じる。すなわち、心によって生き方に差が出るのである。
天命に基づくところに本性がある。本性を突き詰めたところに生きる道がある。その道を究める事が教えである。
気持ちを込めれば心が生じ、心が生じれば命となり、命が籠れば神となる。
それが祈りである。
中庸というのは、平凡、平均を言うのではない。
天命に中るという意味である。
何事にも偏らず。天命、すなわち、自分の良心、信念に忠実に生きるという事である。
中庸などというと、何事も当たらず触らず、日和見主義的だと思われがちであるが、それは後世、やれ右翼だ、左翼だと決めつけ、どちらにも属さない人間を意志薄弱だと決めつけ。頑なまで、主義主張に囚われ、自分を失い堕落した人間が考える事である。本来の中庸というのは、周囲の環境や状況に迎合する事なく。自分が信じるところを貫くという意味なのである。
中庸というのは、自分のない腑抜けた様な状態とは真逆な事である。
中とは、可もなく、不可もなく、平均、平凡、右と左の真ん中という意味ではなく。己の心根の中心を生きるという意味である。
性とは、自分の本来の性分を言い。中庸とは、自分の誠を究める事である。
神と天と自分とを貫く誠こそ求める道である。
自分の誠を尽くせば天にも神にも通じるのである。
「孟子」
天不言、以行與事示之而已矣、
天は何も言わない。人の行動とその結果によって天命を示唆するだけだ。
「陽貨」 第十七の十九
子曰わく、予(わ)れ言うこと無からんと欲す。
子貢(しこう)が曰わく、子如(も)し言わずんば、則(すなわ)ち小子(しょうし)何をか述べん。
子曰わく、天何をか言うや。
四時(しじ)行なわれ、百物(ひゃくぶつ)生ず。天何をか言うや。
孔子がおっしゃいました、
「私はもう何も言わない事にする。」
すると子貢(しこう)が、
「先生が何もおっしゃらなかったら、これから我々は何について論じれば良いというのですか。」
と言い、孔子は、
「天は何も語らない。しかし四季は巡り、生命は誕生する。天は何も語らない。(言葉以上に我々に語りかける)」
と答えられました。
「論語-憲問35」
天を怨みず、人を尤とがめず、下学して上達す。
我を知る者は、其れ天なるか、と。
時勢に合わずとも天を怨むことなく、道理に合わずとも人を咎めることなく、常に自らに反かえりて上達す。
我を本当に知る者は、それ天に違いない、と。
「老子」 第一章
道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
道(みち)の道(みち)とす可(べ)きは、常(つね)の道(みち)に非(あら)ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。名なきは天地の始にして、名あるは万物の母なり。故に常に無は以て其の妙を観んと欲し、常に有は以てその徼(きょう)を観んと欲す。此の両者は同じきより出でて名を異にす。同じく之れを玄と謂いう。玄のまた玄は、衆妙の門なり。
これが「道」だと言い表せる様な道は、偉大なる不朽の道ではない。これが「名」だと呼べる様な名は、真実不変の名ではない。天地が創られた時には名など存在せず、万物が生み出された後にそれらは名づけられたのだ。だから無欲な心をもってすれば、万物の深遠なる姿を見る事ができるだろう。欲望の虜のままでは、万物の上辺の姿しか見る事ができない。これら万物の二つの姿はそれぞれ名前は違えど、同じ一つの根源から生じている。その根源を「玄
– 深遠なる神秘」と私は名づけたが、その玄のさらに玄、神秘を生み出すさらなる神秘からこの世の全ては生み出されている。
「老子」 第二十五章
物有り混成し、天地に先んじて生ず。寂(せき)たり寞(ばく)たり、独立して改(かわ)らず、周行して殆(とど)まらず。
以(も)って天下の母と為すべし。
吾(わ)れその名を知らず、これに字(あざな)して道と曰(い)う。
強(し)いてこれが名を為して大と曰う。
大なれば曰(ここ)に逝(ゆ)く、逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反(かえ)る。
故に道は大、天も大、地も大、王もまた大なり。
域中(いきちゅう)に四大(しだい)あり、而(しか)して王はその一に居る。
人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。
なにやら漠然と混じり合った物があって、それは天地より先に生まれ出た。
音も無く静かで形も無く、何ものにも頼らず存在し何の変化も無く、どこまでも広がって行きとどまるところが無い。
それは万物を生み出す母の様なものだ。
私はそれを何と呼んで良いのか解らないので、仮に「道」と名づけた。
あえて別の言い方をするなら「大」と呼べるだろう。
「大」であればどこまでも広がって行く、どこまでも広がって行けば果てしなく遠くまで到達し、果てしなく遠くまで到達すればまた元の位置に帰ってくる。
つまり「道」がこの「大」の性質を持つように、天も「大」であり、地も「大」であり、王もまた「大」である。
この世界にはこれら四つの「大」が存在し、人を統べる王はその一つであらねばならないのだ。
人は地を模範とし、地は天を模範とし、天は「道」を模範とし、「道」はそのありのままの姿のままでいる。
「老子」 第七章
天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生。故能長生。
天は長く地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以は、その自生きざるを以てなり。故によく長生す。
天は永遠であり、地は久遠である。天地がその様に永久であるのは、自ら永久であろうとする意志が無いからだ。
「老子」 第三十九章
昔之得一者。天得一以清、地得一以寧、神得一以靈、谷得一以盈、萬物得一以生、侯王得一以爲天下貞。其致之、一也。天無以清將恐裂。地無以寧將恐廢。神無以靈將恐歇。谷無以盈將恐竭。萬物無以生將恐滅。侯王無以貴髙將恐蹷。故貴以賤爲本、髙必以下爲基。是以侯王自謂孤寡不轂。此非以賤爲本耶。非乎。故致數譽無譽。不欲琭琭如玉、落落如石。
昔(はじめ)の一を得たるもの。天は一を得てもって清く、地は一を得てもって寧(やす)く、神は一を得てもって霊に、谷は一を得てもって盈みち、万物は一を得てもって生じ、侯王(こうおう)は一を得てもって天下の貞(てい)たり。そのこれを致すは、一なればなり。天もって清きことなければはた恐らくは裂(さ)けん。地もって寧(やす)きことなければはた恐らくは発(ひら)かん。神もって霊なることなければはた恐らくは歇(や)まん。谷もって盈つることなければはた恐らくは竭つきん。万物もって生ずることなければはた恐らくは滅びん。侯王もって貴高(きこう)なることなければはた恐らくは蹶(たお)れん。故に貴は賤をもって本となし、高はかならず下をもって基となす。ここをもって侯王は自ら孤・寡・不穀(ふこく)と謂う。これ賤をもって本となすにあらずや。あらざるか。故に誉(よ)を数うるを致せば誉(ほまれ)なし。琭琭(ろくろく)として玉のごとく、落落(らくらく)として石のごときを欲せず。
全ての始まりである「一」を得たものたち。天は一を得て清く澄み渡り、地は一を得て安定していて、神々は一を得て霊妙であり、谷川は一を得て水で満たされ、万物は一を得て生まれ、諸国の王は一を得て統治の資格を得た。全てこの様に「一」を得てその本質を得ているのだ。天がもし清くなければ裂けてしまうだろう。地がもし安定していなければ崩れ落ちてしまうだろう。神がもし霊妙でなければ誰も敬いはしないだろう。谷川がもし水で満ちていなければ枯れてしまうだろう。万物がもし生じる事なければ絶滅してしまうだろう。諸国の王に統治の資格がなければ王朝は滅ぶだろう。この様に貴いものは常に賤しいものが根本にあり、高いという事は常に低いものが根本にあるのだ。それだから諸国の王達は自分の事を「孤(みなしご)」とか「寡(ひとりもの)」とか「不穀(ろくでなし)」などと呼ぶのだ。これは賤しいものをこそ根本と考えているからなのではないだろうか。その事を忘れて名誉を求めようとすると帰って不名誉を受ける事になる。美しい宝石も路傍の小石もわざわざ選り分ける様な事をせず、ただ「一」だけを守っておれば良いのだ。
「老子」 第四十章
反者道之動。弱者道之用。天下萬物生於有、有生於無。
反(はん)は道の動なり。弱(じゃく)は道の用なり。天下万物は有より生じ、有は無より生(しょう)ず。
「老子」 第七十七章
天之道其猶張弓與。
髙者抑之、下者擧之。
有餘者損之、不足者補之。
天之道損有餘而補不足。
人之道則不然、損不足以奉有餘。
孰能有餘以奉天下。
唯有道者。
是以聖人、爲而不恃、功成而不處、其不欲見賢。
天の道はそれ猶(な)お弓を張るがごときか。
高き者はこれを抑え、下(ひく)き者はこれを挙(あ)ぐ。
余りある者はこれを損(そん)じ、足らざる者はこれを補う。
天の道は余り有るを損じて而(しか)して足らざるを補う。
人の道は則(すなわ)ち然(しか)らず、足らざるを損じて以(も)って余り有るに奉(ほう)ず。
孰(た)れか能(よ)く余り有りて以って天下に奉ぜん。
唯(た)だ有道の者のみ。
ここを以って聖人は、為(な)して而も恃(たの)まず、功成りて而も処(お)らず、それ賢を見(あら)わす欲(ほっ)せず。
無為自然の天の道は、弓に弦を張るときと似ている。上の部分は下に引き下げ、下の部分は上に引き上げる。弦の長さが長すぎれば短くし、短すぎればつぎ足す。この様に天の道は余った所を減らして足りない所を補っているのだ。しかし人の世の道はそれとは逆で、足りない所からさらに奪って余っている所に補っている。自らに余るものを人々に分け与える者は誰であろうか。それは「道」を知った者だけである。そうして「道」を知った聖人は、何かを成し遂げてもそれに頼らず、過去の功績にいつまでもしがみつかず、自分の賢さを人に誇る事も無い。
「中庸」
天の命ずるをこれ性と謂う。
性に率うをこれ道と謂う。
道を脩むるをこれ教と謂う。
天(万物生成の根本原理・宇宙の主宰者)の命令するものを『性(生まれつき備わっている性質)』といい、その性に従って行うことを『道』といい、その道を修得することを『教え』というのである。
道なる者は、須臾も離るべからざるなり。
離るべきは道に非ざるなり。
是の故に君子はその睹ざる所に戒慎し、その聞かざる所に恐懼す。
隠れたるより見わるるは莫く、微かなるより顕わるるは莫し。
故に君子はその独を慎むなり。
道というのはわずかな間(しばらくの間)も離れてはいけないものである。離れられる道であれば、それは道ではないのだ。このため、まだ見ていない時に道を戒めて慎み、まだ聞いていない時に恐れて畏まるのである。道は隠れているように見えてもいずれは見えるものであり、微妙なものであってもいずれは明らかになるものであるから、君子は自分独りが知っている道についてそれを慎んで恐れるのである。
喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。
発して皆な節に中る、これを和と謂う。
中なる者は天下の大本なり。
和なる者は天下の達道なり。
中和を致して、天地位し、万物育す。
喜怒哀楽の感情がまだ起こっていない精神状態はどちらにも偏っていないので、これを『中』と言っている。喜怒哀楽の感情が起こってもそれがすべて節度に従っている時には、これを『和』と言う。『中』は天下の摂理を支えている大本である。『和』は天下の正しい節度を支えている達道である。『中和』を実践すれば、天地も安定して天災など起こることもなく、万物がすべて健全に生育するのである。
誠なる者は、天の道なり。
これを誠にする者は、人の道なり。
誠なる者は、勉めずして中たり、思わずして得、
従容として道に中たる、聖人なり。
これを誠にする者は、善を択びて固くこれを執る者なり。
博くこれを学び、審らかにこれを問い、慎みてこれを思い、
明らかにこれを弁じ、篤くこれを行なう。
学ばざることあれば、これを学びて能くせざれば措かざるなり。
問わざることあれば、これを問いて知らざれば措かざるなり。
思わざることあれば、これを思いて得ざれば措かざるなり。
弁ぜらることあれば、これを弁じて明らかならざれば措かざるなり。
行なわざることあれば、これを行ないて篤からざれば措かざるなり。
人一たびしてこれを能くすれば、己れはこれを百たびす。
人十たびしてこれを能くすれば、己れはこれを千たびす。
果たして此の道を能くすれば、
愚なりと雖も必ず明らかに、柔なりと雖も必ず強からん。
誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり。誠は勉めずして中り(あたり)、思わずして得て、従容(しょうよう)として道に中る。聖人なり。これを誠にするは善を択んでこれを固執する者なり。
博く(ひろく)これを学び、審らか(つまびらか)にこれを問い、慎んでこれを思い、明らかにこれを弁じ、篤くこれを行う。学ばざるあり、これを学んで能く(よく)せざれば措かざる(おかざる)なり。問わざるあり、これを問うて知らざれば措かざるなり。思わざるあり、これを思うて得ざれば措かざるなり。弁ぜざるあり、これを弁じて明らかならざれば措かざるなり。行わざるあり、これを行うて篤からざれば措かざるなり。人一たびこれを能くすれば己これを百たびし、人十たびこれを能くすれば己これを千たびす。果たしてこの道を能くせば、愚と雖も必ず明らかに、柔と雖も必ず強(きょう)なり。
誠なる自り明らかなる、これを性と謂う。
明らかなる自り誠なる、これを教えと謂う。
誠なれば則ち明らかなり、明らかなれば則ち誠なり。
誠から発して善が明らかになる、これは天命・天道の性(聖人の徳)である。善を明らかにしてから誠となる、これは修身の教え・人道(賢人の学)である。誠であればそれは明(善の明らかさ)である。明(善の明らかさ)であればそれは誠なのである。
唯だ天下の至誠のみ、能くその性を尽くすと為す。
能くその性を尽くせば、則ち能く人の性を尽くす。
能く人の性を尽くせば、則ち能く物の性を尽くす。
能く物の性を尽くせば、則ち以て天地の化育を賛くべし。
以て天地の化育を賛くべくんば、則ち以て天地と参なるべし。
天下の至誠を体現した聖人は、ただその天命の性(万物の根源にある本質)を察してそれを尽くすものである。自分の性を尽くすということは、他者の性を尽くすということでもある。他者の性を尽くせば、物の性を尽くすということになる。物の性を尽くせば、天地が万物を生成発育させる働きを賛助・促進することができる。天地の万物生成の原理を賛助・促進すれば、天地と共に立って(天地人の三者の均衡を実現して)天命に適うことができる。
その次は曲を致す。
曲に能く誠あり。
誠なれば則ち形われ、形われば則ち著るしく、
著るしければ則ち明らかに、明らかなれば則ち動かし、
動かせば則ち変じ、変ずれば則ち化す。
唯だ天下の至誠のみ、能く化すると為す。
聖人に及ばない次の賢人以下の人たちなどは、仁義・忠孝・孝悌などの徳性の一端から道を推測して極めていく。正しい徳性の推測ができれば誠につながる。誠があれば、外に形となって現れる、形があれば徳は著しくなり、著しくなれば徳のあることは明らかで、徳が明らかであれば人々を動かし、人々が正しい方向に動けば世の中が変わり、世の中が変われば天下国家が徳化されて治まることになる。天下にいる至誠の聖人は、ただ天下を徳化・教化することができるのである。
誠よりして明なるこれを性と謂う。明よりして誠なるこれを教えと謂う。誠なれば則ち明なり。明なれば則ち誠なり。
誠から発して善が明らかになる、これは天命・天道の性(聖人の徳)である。善を明らかにしてから誠となる、これは修身の教え・人道(賢人の学)である。誠であればそれは明(善の明らかさ)である。明(善の明らかさ)であればそれは誠なのである。
誠なる者は自ら成るなり。
而して道は自ら道びくなり。
誠なる者は物の終始なり。
誠ならざれば物なし。
是の故に君子はこれを誠にするを貴しと為す。
誠なる者は自ら己れを成すのみに非ざるなり、物を成す所以なり。
己れを成すは仁なり。
物を成すは知なり。
性の徳なり。
外内を合するの道なり。
故に時にこれを措きて宜しきなり。
故に至誠は息むことなし。
息まざれば則ち久しく、久しければ則ち徴あり。
徴あれば則ち悠遠なり、悠遠なれば則ち博厚なり、
博厚なれば則ち高明なり。
博厚は物を載する所以なり、高明は物を覆う所以なり、
悠久は物を成す所以なり。
博厚は地に配し、高明は天に配し、悠久は疆りなし。
此くの如き者は、見さずして章われ、
動かさずして変じ、為す無くして成る。
天地の道は、壱言にして尽くすべきなり。
その物たる弐ならざれば、則ちその物を生ずること測られず。
天地の道は、博きなり、厚きなり、高きなり、明らかなり、久しきなり。
今夫れ天は、斯の昭昭の多きなり。
その窮まりなきに及びては、日月星辰繋り、万物も覆わる。
今夫れ地は、一撮土の多きなり。
その広厚なるに及びては、華嶽を載せて重しとせず、
河海を振めて洩らさず、万物も載る。
今夫れ山は、一巻石の多きなり。
その広大なるに及びては、草木これに生じ、
禽獣これに居り、宝蔵興る。
今夫れ水は、一勺の多きなり。
その測られざるに及びては、黿鼉鮫竜魚鼈生じ、貨財殖す。
詩に曰く「惟れ天の命、於穆として已まず」と。
蓋し天の天たる所以を曰うなり。
「於乎、不いに顕かなり、文王の徳の純なる」と。
蓋し文王の文たる所以を曰うなり。
純も亦た已まず。
唯だ天下の至誠のみ、能く天下の大経を経綸し、
天下の大本を立て、天地の化育を知ると為す。
夫れ焉くんぞ倚る所あらん。
肫肫として其れ仁なり、淵淵として其れ淵なり、浩浩として其れ天なり。
苟くも固に聡明聖知にして天徳に達する者ならざれば、
其れ孰か能くこれを知らん。
天下の至誠を体現した聖人は、ただその天命の性(万物の根源にある本質)を察してそれを尽くすものである。自分の性を尽くすということは、他者の性を尽くすということでもある。他者の性を尽くせば、物の性を尽くすということになる。物の性を尽くせば、天地が万物を生成発育させる働きを賛助・促進することができる。天地の万物生成の原理を賛助・促進すれば、天地と共に立って(天地人の三者の均衡を実現して)天命に適うことができる。
「易経」 繋辞上伝
天を楽しみて命を知る 故に憂えず。
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