神について思う
精神修養
老いは、残酷である。
何もかも奪い去っっていく。
記憶も、力も、視力や味覚さえも奪い去っていく。
楽しみも、喜びも、微笑みさえ、微かに…。
瑞々しい思い出も虚しくなり。
希望や夢も色褪せ、遠のいてくる。
人との心ときめくような出会い、新鮮な知識をむさぼる事も、将来の可能性も奪い取っていく。
恋する事も、愛する人との一時も、子供を産み育てる事も、旅する事も、友と夢を語らう事も、学ぶこと等、わくわくするような気持ちも失せてしまう。
時の流れは、一方通行。帰りたいと思っても、若い頃に戻る事はできない。
犯した罪は、時の経過とともに重くのしかかってくる。
若い頃はやり直しがきくと思っていたが、歳をとるとともに、もうやり直しができないという事を思い知らされる。
やり直しができないと気が付いた時は、手遅れなのである。
未来が信じられなくなった時、人は希望をつなぐことができるのであろうか。
老いた時こそ心の平安が求められる。
そして、いつか人は、死と向かい合わなければならない時が来る。
その時、私は平静に死という現実を受け入れる事ができるであろうか。
逆境にある時、人生の岐路に立たされた時、危機に遭遇した時、人は決断を迫られる。
心乱れ、冷静でいられないような時ほど、平常心が求められるのである。
だからこそ、生きていくうえで精神修養は不可欠な事なのである。
精神修養などというとすぐに精神論に結び付けられ、安手の根性ドラマに仕立てられてしまう。
根性論も精神論も若いから意味がある。
しかし、歳をとれば、根性論や精神論がいかに虚しく、静謐こそ精神修養によって至る境地だと知る。
それに、精神論は、短絡的に軍国主義や全体主義、封建主義に結びつけられやすい。
それを理由にして精神修養を頭から否定してしまう人も多くいる。
しかし、それは誤解である。
精神修養は修行である。そして、日本人は、修行というと武者修行を思い浮かべるから軍国主義だなんて言うのである。
修養は修行である。武道に限らず日本人は、華道、茶道、そして仕事にも
精神修養が一番求められる場面は、決断にある。
自分が人生の岐路に立たされた時、逆境にある時、迫害にあった時、失敗した時、志操を試された時、平常なる精神をいかに保てるかそこに精神修養の必要性がある。
危機は突然やってくる。
どんな状況に陥っても動揺する事なく、冷静沈着な判断をできるように、常日頃から心を鍛えておかねばならない。
欲望は、活力である。
私は、欲望を否定しようとは思わない。
人は、欲があるから、向上心も持てるし、発展性もある。
欲は意欲の本でもある。欲は若さの源でもある。欲があるから若さが保てる。
欲望を否定したら人はやる気を失ってしまう。
問題は、欲望を抑えられなくなる事である。
先日も自分の欲望を抑えられなかったと女性を暴行した事で芸能界から追放されたものがいた。
一瞬の気の緩みや出来心によって人生の歯車は狂うのである。
世の中には、人を狂わせる誘惑は多く、取り返しのつかない事ばかりである。
痴漢をしたと言われて社会的な地位を奪われた大学教授もいる。
不倫問題で失脚した政治家も数知れない。
国家元首や聖職者ですら堕落する者がいる。
性的問題だけでなく、金や地位によって人は争い、また、堕落していく。
たった一度の過ちですべてを失う事もある。
人間はあさましいというか、欲望に弱いのである。
精神修養とは、心を強くすることであり、単純な精神論や根性論とは異質な事である。
危機は、日常的な些細な出来事の中に隠されている。
精神力は、日常的な些細な姿勢にこそ求められる。
日々研鑚を積み重ねていないとたちまち身を持ち崩してしまう。
考えてみれば個人の大事も、国の大事も個人という立場から見ると同じくらい重いのである。
国の大事を任せられている者が賂や誘惑によって堕落する者がいたり、
自分の弱みで国を売る事がある。
結局、個人の弱みは国の弱みにもなる。
国の大任を委ねられるものは、身をきれいにし、潔くする必要がある。
だからこそ修身から始まるのである。
欲望は、生きる活力である。欲望を否定したら人は、生きる活力を失う。
しかし、欲望を制御できなければ身の破滅を招く。
だから、精神修養が必要なのである。
精神修養こそ人生本来の目的でもある。
精神修養は信仰につながるのである。
いざという時に、重要なのは、意志である。意志は強い精神力によって発揮させられる。
時間が解決するとか、誰かかなんとかしらてくれるといった他人本意では、事態は打開できない。
よくなるのではなく。よくするのである。
そこで問われるのは自分の意志である。
何とかなるのではなく。何とかするのである。
その時、問われるのは、精神力である。
そして、その時のために涵養しておかなければならないのが精神力なのである。
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