神について思う
神の前に一人立たされる
経営者というのは、大概、自分のやった事で責任を取らされるわけではないんですね。
部下のやった不行跡によって責任を取らされる場合が多い。
しかも、その部下からも裏切られたり、背信行為をされる。
信じられるかと言われても・・・。
信じられるかと言われたら、自信はない。信じられるか、信じられないかではなく、信じるんだとしか言いようがない。
いつ裏切るかもしれない部下を信じて責任をおっていく。
経営者なんてそんなものです。また、その覚悟がなければ経営者は務まらない。
自分がどこまで責任を負えるのか。
どこまで責任を負うべきか常に問い続けていなければいけないんですね。
だから、経営者同士というのは、暗に相手の経営に対して批判しなというか、どんな事があっても批判できないという面があるんですね。
高畑さんの事でも自分が同じ立場に立たされたらどうしようとは考えますが、高畑さんに同情する事も非難する事も出来ない。
自分がやった不行跡でない部下の不始末を片づけて、片づけてきますと、女に狂ったり、酒に溺れたりする経営者も出てくる。
それも許されない事もわかっています。
真面目にやっても、処罰されるときは、処罰される。いい加減にやっても同じなら適当にして、面白おかしく生きていこうという誘惑が絶えずあるんです。
しかも、無責任に面白おかしく生きている経営者を見ても、責める気になれない。
自分にはそういう生き方はできないなと・・・。
でも彼らと自分との距離は紙一重なんですよ。
どんなに言い訳をしても事実は事実ですし、言い訳をすればするほど、わが身に返ってくるのはわかっていますから。
洒落でなく、いつも頭を下げる練習をしていますよという経営者によく出会います。
そう思った時、私は、神に出会ったのです。
夜、一人になった時、神と対峙し、今の真実の姿を神とさらし、今あるべき姿を追求する事で、常に、自分自身を認め、許す。
誰に認められなくとも、誰に許されなくとも、神にだけは自分の真実の姿をさらしていこう。
それが僕の信仰の基本です。
言い訳ができない時、苦しい時、だれにも相談できなくなった時、自分を見失いかけた時、言い訳をしたくなった時、何もできなくなった時、逆境に陥った時、私は、部屋を暗くし、体の力を抜いて、暗闇の向こうにいる神に問うのです。
これでよろしいのでしょうか。自分は何者なのでしょうか。
このまま生きていていいのでしょうか。
一時の感情に流されていないでしょうか。
本当の自分はどこにあるのでしょうか。
相手を責めたところで、他人に責任を持っていこうと、神には何の影響もありません。
かといって自分だけを責めればいいかと言えばそれも許されません。
ただ、ただ、自分を見つめなおし、自分を直視し、神のみに許しを請うのです。
それが私の信仰です。
高畑さんにしても周囲の人間が何を思い、何をするのかではなくて、その時、自分が自分らしい行動をとれるかだと思うのです。
勘当をするか。関係ないと突き放すか。高畑さんの様にそれでもあなたは私の子と声をかけるのか。抱きしめるのか。
でも、いずれにしても許さない者は許しません。
だから私は、闇の向こうに居られる神に向かって問うのです。私は何者なのでしょうかと。
神の答えはありません。期待もしません。
でも、私は、神の前に祈るしかないのです。
私は、私にしかなれないと・・・。
私は、私が信じたことを行い。後は、全てを神にゆだねます。そして、その結果がどうあろうと、そのすべてを私は、受け入れ。神への信仰は捨てませんと…。神を信じるしか救いはないのです。
神に祈るしかないのです。
俺は知らなかったといったところで、知らなかったことが問題とされるし、勝手にしたと言えば言い逃れとみられる。
今の世の中なんでもかんでも精神症の病気にしてしまうみたいなところがあって…。
やれうつ病とか、人格乖離だとか、心身症だとか、PTSD、発達障害、統合失調症、更年期障害とか。
でもいいのです。
周囲の人間にあいつは病気なんだと訴えるのも。言い訳や弁解をしたところで。
たとえ理解されたとしても、結局、何の解決にもならない。
あいつは精神に異常があるとか、出来心でといったところで許されない事は許されない。
結局そういう行為も自分を納得させるだけの事のように思えてきました。
要は、自分の問題なのです。
自分がどう受け止めるかの問題なのです。
ぼくは、全てをあるがままに受けれて神にゆだねる事にしました。
人間なんて無力な存在であって、たとえ自分を納得させることができたって物事の本質は変わらないのです。
自分が相手を傷つけ、自分が傷つけられたとしても。
根本的な事は何も変わらない。
だから、私は、神を受け入れ。神に祈ることにしたのです。
こんなことがありましたとか。こんな思いをしましたとか。
こんなことを言われましたとか。
でも、部下だし、家族なんですよねと・・・。
神に告白するんです。
わかりました。
これも「神の与えた試練だ。」と受け止めます。
結局、相手が許せないのではない。自分が許せないんですね。
こんな息子にしたのは、自分なんだと。
息子を許す事は出来ても自分が許せない。
だから、結局、息子も許す事になっていない。
それを息子も感じてしまう。
どこかで私の育て方が悪かったとか、自分を許せずに自分を責めている。
でも自分を責めたところで何も変わらないんですよ。
何も変わらないし、何も変わらないのはわかっている。
それでは、誰も許したことにならない。
神に許しを請う以外救いはないのです。
だから神に祈り神に許しを請う。
そして、過ちがあったら悔い改める。
相手を変えようとしたって変わらないんです。
なぜなら、彼等も自分が許せないからです。
まず自分を許さなければ、彼らを許す事もできない。
息子が悪であろうと、周囲の人達と価値観が違おうとそんなことはどうでもいいのです。
大切なのは、自分が許せるかですよ。
そこには、神と自分との関係しかないんです。
僕は、高畑さんがどのような考えによって、どのような決断をすべきか、とやかく言える立場にないと思うのです。
それは、僕は、高畑さんと神と一対一の問題だと思うからです。
それなのに連日、テレビでは、他人の事をとやかくとやかく・・・。
被害者の事もそっちのけで…。
結局、自分たちを神の様に考えてですね。
人を裁いている。
意味もなく。
彼らの論評で誰も救われる事もないのです。
その方がずっと問題だし、罪作りです。
どうやって責任をとれというのですか。
死ねとでもいうのですか。
人は、結局最後に、裸で神の前にただ一人立たされるのだと思います。
それを覚悟して毎日、毎日、その日、その時、その瞬間、最善を尽くして生きていくしかない。
高畑さんも、息子さんも結局、最後は神の前に一人立たされるのです。
その時、頼れるのはその人自身、自分自身しかない。
そう思って私は、日々神に祈る事にしているのです。
自分の過ちを認め、悔い改めるしか、自分が、神の許しは受け入れられないのです。
神が許さないのではなく、自分が許さないのです。
人は神の前に平等なのです。
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