神について思う
原 罪
罪とは何かですが。
一神教徒における罪とは、神に対する罪ですね。
この点が一神教徒以外の人間には理解できない。
一神教徒の罪は、神に対する背信。神を欺くこと。自分の罪を認め悔い改めない事が罪なのですね。
それが原罪を元としている。
日本人の罪というのは、家族とか、友人とか、社会とか、国家に対する規範、決まり事に基づく。
だから、誰々に悪いとか、皆に悪いという意識が働く。それで謝れという。
しかし、一神教徒にとって謝れと言われても、誰に謝れというのか。
神に謝るのか、謝る対象がいるとしたら強いて言えば自分に対してか当事者に対してですね。しかし、それが罪だと認めたならば、謝ったからと言って許されるとは限らない。
だから簡単に謝らないし、謝れない。
しかもキリスト教徒は原罪という意識がある。
だから、キリスト教徒、常に、罪と向かい合わなければ許されなくなる。
そして、神は唯一絶対だから、善悪の基でもある。
だから新渡戸稲造が神父に日本人はどのような神を信じているのかと聞かれ、日本人は神を信じていないと言ったら相手の神父がびっくりしてではどうやってモラルを守るのかと聞かれたという。
彼らにすれば唯一絶対の神を信じるから善悪の基準を検証できるというのですね。
原罪というのは、神の言いつけに背いたという罪。
神の問いに嘘をついたという罪。
自分の罪を素直に認めず、悔い改めなかったと言うの三.点です。
この三点は以後のキリスト教の在り様を制約います。
キリスト教では、神の言いつけに背いたというのは、絶対的な罪です。
ただ、善悪の知識の木の実を蛇にそそのかされてイブが食べたと言う点ですね。
確かに、原罪というのは、一神教徒以外わかりにくい。現在というのは、旧約ですから、ユダヤ教も、イスラム教も、キリスト教も共有しています。
原罪というのは、人間である事による罪ですね。キリスト教徒は生れた時から罪を背負うのです。
ただ原罪意識があるから、自らの存在にまで遡って何が善で何が悪かを考えざるを得なくなったんだと思います。
一神教徒以外人間である事の罪というのは、わかりにくいと思います。
僕もキリスト教徒ではないので、原罪という意識は持ちにくいです。ただ彼等にとって人であること自体が罪なのです。
一神教徒にとって守らなければならないのは、神と自分の真実ですね。
神との約束です。神との約束、誓いは、神との契約にあたる。だから、彼らは契約の民とされるのです。
彼等にとって神との約束を破る事は死よりも恐ろしい。
なぜならば罪となるからです。
世俗の法を犯す事よりもずっと罪を犯す事は恐ろしい。
彼等にとって罪を犯すのは死に値するどころか、死後まで祟られる。
それほど恐ろしい事ですね。
だから彼らは、罪に向き合い自分とは何かを問い続ける。
では何によって罪は生じるのか。それは分別ですね。
分別を持つと善悪の知識が生まれる。
善悪の判断は、本来、父なる神が定める事ですから、分別を持つことは罪なのです。
その罪の究極なところに科学がある。
ですから、欧米には、反科学主義、反知性主義みたいなものが根強くあります。
私の言う神は、そういう分別の外に居られる。
唯一絶対の神です。
そのような神は、直に存在を感じる。認識するしかない。
自分は、神の唯一性と絶対性を存在に求め、相対性と分別を認識に置きました。
そして、神に対する信仰と自己の確立によって自分も社会も調和させることを追求する事としたのです。
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