神について思う
純粋の信仰生活
私は、先生は既に信仰生活に実践されていると思います。
先生の生き方は、純粋な信仰の表れですね。
先生の言われるビジョン(理想)の延長線上に神はおられる。
神は、先生を通じてこの世に降臨し、実現する。
自分の体は、神をこの世に現すための道具にすぎません。
この世にあらわれたビジョン、理想は相対的で不完全なものでもその根源は、唯一絶対な神を源している。
ですから、ビジョンの本質は唯一であり、絶対です。
故に、純粋な信仰は、自己と神との一対一の関係でしか成り立たない。
静かなところで神と対峙して自分の心の声に耳を傾けるだけです。
顧みて恥じる事がなければ堂々と行えばいい。
顧みて過ちがあれば懺悔して改め、神に許しを請い、悔い改める。
そのようにして自分の魂を浄化し、行いによって自分の魂を救済する。それが信仰です。
信仰は、他人のためにも、神のためにもするのではなく。自分のためにするのです。
私は、自分が受けた啓示を神の声だとして他人に強要しない。ただ、実践するだけです。
どこかの教祖のように自分の言葉を絶対だとしたら、その瞬間に言葉は、純粋さを失い、信仰は俗化してしまいます。
だから、私は神は沈黙するというのです。人は、迷い悩んだ時、純粋に神と対峙して心の声に従えばいいのです。後は祈りです。
そして、神に感謝するのです。自分が生かされている事を神に感謝するのです。
神が唯一で絶対だとしたら、何々教などという垣根はあるはずがありません。
世俗の神は信じたいように信じればいいのです。
神を信じたところで何かが変わるわけではありません。
神を信じて変わるのは自分だけです。
神を信じても変わるのは自分以外何もないのです。
だから真の信仰は、自分の心の声に素直に従った時現れるのだと思います。
なぜならば、自分を純化し、超越したところに、神はおられるのだと私は信じるからです。
自分と神との間に何物も挟んではならない。それが、私の信仰の根本です。
私が先生に向かってこれは神の言葉ですと言ったら、それは虚言です。
神の啓示は、ただ実践あるのみです。行いを通じてしか神の意志は表せないからです。
いくら過ちを認めたところで悔い改めない限り許されない。
神の存在は、一人ひとりが直に感じる以外にないと私は考えます。
先生のようにああこれなんだと直感する事がありましたら、それは神です。
神の前に人は平等なのです。
神は、人が絶対になる事も完全無欠である事も望んではいません。
人は、弱くて、不完全で、相対的な存在です。
それでいいではないですか。
人は神にはなれないし、なる必要もないのです。
それがラ・マンチャの男です。
イエスこそ狂人であり、それに従う者は愚か者なのです。
だからこそこの世に奇跡が起こせるのです。
イエスは、信仰の実践者です。
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