神について思う
いつの日にか
何か得体のしれない不確かな曖昧模糊とした存在
何か、得体のしれない、不確かな、曖昧模糊とした神という存在に唯一性と絶対性を認めるから、人は、多様で、相対的な存在でいられるのだと私は思うのです。
それ故に、神の存在は、根源的で、本質的なのだと私は思います。
人間は、神を自分の都合のいい存在のように考えようとしています。
だから、神の本質が理解できないのだと思います。
人は、幸せな時、神を侮り。
不幸になると神を罵る。
しかし、神は、神だ。
神を、必要としているのは、人間であり、
神は、人間を必要としていない。
これが僕の大前提です。
信仰の目的は、魂の救済であり、浄化です。
故に、救いは神にしかない。
信仰の本質は、自己の内面の問題であって物質的な問題ではありません。
そこが日本人が理解できない点なのだと思います。
神に見返りを求めること自体、的外れなのです。
信仰とは、神を信じられるか、否かではなくて、信じるという強い意志に裏付けられた事だと思うのです。
信仰は、神の側の問題ではなく。自己の側の問題だからです。
イスラームの人間がなぜ西洋文明を拒否するのか。その根底には、精神世界がかかわっているからだと思います。彼らは、自分の精神世界を土足で踏みにじられている感じているのだと思います。
物質的な豊かさだけを求めたら、神は見えなくなります。
信仰の動機なんて、些細でつまらない事だと思います。
失恋したとか、試験に失敗したとか、試合に負けたとか、いじめられたとか、親に叱られたとか。
友達を傷つけたとか、過ちを犯したとか、自分の無力さを知ったとか。
何かに挫折し、絶望した時、そんな時に信仰の兆しが表れるのだと…。
自分を許してほしいと思う時。
成功や栄光よりも挫折や失敗、みじめさの方が神に近づけてくれる。
己の弱さ、醜さに気が付き打ちのめされた時こそ神を必要としているのだと思います。
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