神について思う

信仰の意義



信仰の意義は、神を信じる事にあり、神が存在するか、否かにあるわけではない。
大体、神を信じる者にとって神は確かに存在しているし、神を信じない者にとって神は絶対に存在しないのである。

また、神を信じたからと言って不老不死になれるわけではないし、金持ちになれるわけでもない。

神を信じようと信じまいと神の存在には何のかかわりもない。

故に、信仰は、どこまで行っても、個人、すなわち、自己の意識の問題なのである。

信仰の意義は魂の救済にある。
神を信じる事によって自分の存在意義や生きる目的、生きる意義を見出す事ができる。
生きる事の正しさや意義。それを与えてくださるのは神である。
神を信じる事によって生きる事の意義や目的が与えられる。
信仰の意義は、そこにある。

信仰心を持たない者にとってどうせ死ぬのなら、やりたい事をやって、面白おかしく生きた方がいい。
逆に、金や地位、権力に執着したら際限がなくなる。欲に狂えば歯止めが利かなくなる。
快楽を追い求め、底なしの欲に沈んでいく。
落ち込んだら、どこまでも落ちていく。溺れたらどこまでも溺れてしまう。
それでいいとするからである。
つまり、救いようがなくなるのである。

故に、信仰の意義は魂の救済にある。

信仰心がなければ刹那主義的になるし、快楽主義的にもなる。虚無主義にもなる。
自分に言い訳ばかりをして、悔い改める事もできない。
それでは、モラルなんて持ちようがないし、モラルがないから信用もされない。

信仰の本質は、自己の存在に根差している。
故に、神は、唯一、絶対、不変的で、超越者でなければならない。
唯一、絶対、不変的な存在と対峙する事によって自己の不完全性を超越し、価値観を自己存在の根源的部分にまで掘り下げる事ができるのである。

信仰は、自己の魂の救済、浄化にある。
ところが日本人の多くは、魂の救済など求めてはいない。

神様を信じたら、なにかいい事ある。何もいい事ないなら神様なんて信じたところで意味ないじゃないとなる。
いるかいないかすらわからなものを信じて、何も変わらないのなら、信じたところで何の得にならないと考え、だったら神様なんて信じたって意味ないとなる。
神を信じたら何かいいことあるのと見返りを考えること自体信仰から離れる事なのである。
信仰に現世利益を求めても意味がない。信仰は魂の救済なのである。

損得づくで考えるから価値観も上っ面で軽薄なものになる。
価値観が、根本的に生きるとか、存在とかを突き詰めたところから出るのでているわけではないからである。
道徳といったって好きとか、嫌いとか、皆が良いとしているからとか、昔からそういう決まりだったとか、他人に言われたとか、そんな次元でしかない。
悪い事は悪いなんて神は決めつけたりはしていない。
元来、神は善と悪とを超越した存在なのである。
暴力は嫌だから、暴力は悪い事だと決めつけて、神も非暴力的だと決めつけている。
彼等は、暴力を単純に否定すれば、それで何もかもが片付くと錯覚している。
神だって時には暴力的になる。

暴力を否定するのは、自分の問題であって神の問題ではない。

海を見ればわかる。普段は穏やかで多くの恵みをもたらす海も、一度荒れたら手が付けられなくなり、凶暴な牙をむき出しにすることさえある。
どちらが海の真実かなどと考えるのは、馬鹿げている。
海は海なのである。
神に対する恐れを失くし、備えを怠れば暴力的に命や財産を奪っていく。
しかし、海を信じ、海を怖れ、海から多くを学べば海は沢山の恵みをもたらしてくれる。
海の恵みをめぐって争うのは人であり、海ではない。
海を理解したと思うのではなく。ただ、茫洋と海を受け入れ信じる。
それが海に対する信仰なのである。
海は海なのである。

同様に、神は神なのである。




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