神について思う

定年


日本には、哲学学者はいても、哲学者はいません。
哲学をする事は教えられても、哲学を教える事はできないという人もいました。
僕もそう思います。
哲学を解釈する事が哲学だと日本人は思い込んでいる節があります。
でも哲学は、人々の暮らしの中で生きてこそはじめて哲学なんです。思想ですから。
それなのに、哲学は小難しい屁理屈だと決めつけている人が一般的なのです。

死を考える時、人は皆哲学者になるのです。
ドイツは凄い。ドイツ人は、ウェイターまでカント的な話をすると感嘆した人にカントは別に哲学的な言葉を使ったわけではなく、日常的な表現で哲学的な事を語ったに過ぎないと言い返したという話があります。西田幾多郎は、哲学を啓蒙したが、西田が難解な言葉を使ったから哲学を難しくさせたという人もいます。
世界は、ロゴスで動いています。ドイツはドイツのロゴスでアメリカはアメリカのロゴスで、中国は中国のロゴスで、その根本にあるのは宗教であり、信条です。
ところが日本人は、それが解っていない。日本人の多くは、イスラムが問題だと言いますが、外国の人間は、日本人は得体が知れないと問題視をしています。
場合によっては北朝鮮以上に日本は世界の問題児なのです。つまり、日本人は、いつの間にか日本語のロゴスを失ってしまったように思えるのです。

中国のことをああだこうだ言いますが、日本人は本質的に中国や中国人の事を理解しようとしていない。
日本人は、中国人を孔子や孟子の世界として捉えます。しかし、中国人の民間宗教と正面を向いて理解しようとした人に私は会った事がありません。
中国の民間信仰は、神道の源流ともいえる。それでいて似て非なるものです。
日本人は、漢文というと論語のような事を思い浮かべるけれど、実際は、人々の生活に根付いた文化から、西遊記や金瓶梅、水滸伝、三国志、封神演義のような作品が生まれたのだと思います。
その背景にあるのが中国人のロゴスですね。

思想や哲学は、人々の生活の隅々にまで浸透し、息づいている事なのです。
それは恋愛観や死生観、人生観ですね。
だから人間は誰でも哲学者になれる。
吐く息と溜息にこそ哲学が潜んでいるんですね。
だから哲学なんて難しい事を言うのではないんです。
普段日常の会話を洗練した事に過ぎない。
高層ビルの中にある三つ星はレストランで美食家を気取るか、うらぶれた路地裏の小料理屋で酔いつぶれる事を良しとするか、それこそが思想であり、哲学だと思うのです。

僕らが学生時代は、反戦、反米、反帝国主義、ベ平連を気取っていれば、何とかなりましたが、当時の小説は、理が勝って風情がなかった。
あの時代が過ぎ去ると煌びやかだけれどないようのない作品、技巧ばかりが目立つ作品が増え、その先にあるのはエロ・グロ・ナンセンス。異常、異様な世界。非日常的な世界ですね。
人々の生活感や人間臭みたいなものが消え失せてしまった。理屈ぽいんです。

私は、下町や路地裏で息づいている人間くささ、それを山本周五郎に感じるんですね。
大上段にこれが俺の哲学、主張だではなく、控えめだけれどしっかりとした哲学を私は、感じるんです。

私は、定年制度は、資本主義というか、現代の哲学を最も象徴している気がするんですね。

なぜ、定年制度について今の人たちは真剣に問題にしないのですかね。
経済というのは生きる為の活動ですよ。
年寄りから生きるという事を真剣に考えるチャンスを奪ってもいいのですかね。
会社は株主のものとか、そういう事は、働いている人たちにとってどうでもいい事ではないですか。
それまでのキャリアも知識も、技術も地位も名誉さえ定年になると全てリセットされてしまう。
それを経済的なのだと言われたら、僕は納得しない。
なぜなら、僕にとって経済とは、生きるための活動だからです。
仕事こそ自己実現の手段だと思うのです。生きている間中自分が自分である事を確認する手段として働いる。それが定年になると全てがリセットされてしまう。男でも女でもその人から仕事を奪い取る権利なんて誰にもないはずなのに・・・。
年老いて再就職もままならぬ人から生きがいである仕事を奪う事は、生きるための活動という点から反しているからです。
それまで蓄積していた目に見えない財産を全て帳消しにして、しかも、学校を出たての若い者と対等に競争しろなんてあまりにも酷な話です。
再起する期待も持てない状態で人生をリセットされたら、人生を終わってしまう。後は抜け殻のように生きて行けというのが、現代人の思想ですか。
僕は、経済は、人生だと思うのです。年をとり、衰えた時にこそ何が人生で大切なのか、何を守っていかなければならないのかが見えてくる気がするんですね。
若い時は、若いが故に若さで乗り切ってしまうところがあります。おいて自分の限界を知った時こそ本当の哲学が見えてくる気がするのです。
その世代をただ定年だからとぶった切ってしまう。それこそが現代社会の哲学なのでしょうね。私は、それに抗いたい。生きるために。

労働は権利ですよ。仕事をして対価を受け取る権利、それが、定年になると頭から否定されてしまう。
定年を迎えると事実上、働く権利が奪われる。
サラリーマンは、サラリーマン社会でないと生きられない。
サラリーマンは、サラリーマン社会のキャリアだけが問題とされる。
そこが、職人、自営業者、商店主、農民と決定的に違うことである。
定年になるとサラリーマンは潰しがきかない。
働き場所がなくなるのです。
オーナー経営者や政治家の最大の特権は、働きたいだけ働けると言う事です。
これは人権の問題です。
しかも、サラリーマンは、サラリーマンになった瞬間に運命づけられてしまう。
最初からなるように仕組まれている。サラリーマンだからというだけで、その様にされてその様になる。
つまり、選択の余地がない。
終身雇用というのは、日本的経営と言うが、なんてことはない。
どこの世界でもかつては当たり前なことだったんですよ。
一度雇ったら死ぬまで面倒を見る。
労働は、自己実現の手段です。だとしたら、基本的人権です。

その人その人の働きを見なければ定年の問題点を理解する事はできないと思うのです。
その人が、それまでの人生でどんな働きをしてきたかが重要なのです。
その人の働きに応じた処遇こそが求められていると思うのです。
一人ひとりの働きをみずに、ただ、経済的合理性のみを追求するからややこしい事になる。
人は人なのである。機械ではない。
人の一生を考えてこそ定年の持つ意義が解る。
その人が歩んできた軌跡。そして、その人の晩年について何の感慨もなく。ただ機械的にリセットしてしまう。
それこそが定年退職の最も非人間的な側面なのです。

明治維新も忠臣蔵だって若い連中だけ活躍しただけでなく、年寄りも活躍しているんですよ。
ただ年寄りはあんまり前面にたたないだけです。
経済は生きるための活動です。
現代社会は、年寄りの経済がない。それは年寄りの人生を認めていないからです。
社会を構成しているのは、若者だけではないのです。
年寄りは社会のお荷物、厄介者ではないのです。

亡くなった父は、幸、不幸は、晩年に決まると言っていました。
物理的、生物学的にただ生きるというのではなく。
人として生きる。
ペットや観葉植物のようにただ生かされているだけでは、人は、生きることの意義など見いだせないのである。

哲学を哲学として語れない。それは学校教育の弊害ですね。
学校教育の枠組みの中から抜け出せずに、自由な発想が妨げられている。
定年は、定年なのだと自明な事のように語る。

僕は定年こそが現代社会を象徴する哲学であり、思想だと思うのです。
なのに、誰もがそれを当たり前のように受け止めている。
それこそ哲学の貧困ですね。
六十ですよ。六十。六十で生きて棺桶に入れというのですか。
昔は、定年なんてなかった。それを現代人は、世間がそうなのだからといって何も疑問も持たず受け入れている。
だから愛社精神にも夫婦にも定年があるのです。
人生いかに生きるべきかという問いが文芸や哲学の本質的問いだとしたら、定年後の人生をどう考えるかは、現代人にとって最大の哲学的問題ですよ。
僕の言う哲学とはそういう事です。




定年は、自分にとって切実な問題ですね。
還暦を過ぎてかつて自分が世話になった人たちや自分達の仲間が定年が近づくと投げやりに無責任になり、どんどん仕事を追われいく。
また、これから自分の社員が定年を迎えようとしている。彼等のモチベーションを如何に保つか。
「ロゴスの市」(乙川優三郎著)の主人公や小説家と編集者との関係ですね。小説家や翻訳家は、老いても文章はますます円熟し、深みを増していく。しかし、編集者はどれほど自分の思い入れがあろうと定年になれば全ての仕事を投げ出しいていかなければならない。どんなに無責任と言われてもですよ。
これから多くの若者達に新しい時代を切り開いていかなければならないというのに、一人ひとり第一線から消えていく。でも、その多くの人たちが未練がましく自分達の思いを吐露し、涙を流すのを見てきましたからね。
そして、いよいよ我々の次の世代が、老後の蓄えや備えもできないままに、定年へと追いやられていく。
大切なのは一人ひとりの人生ですよ。自分にとっては大切な仲間達なのですから。

働くというのは、生きる事の生業ですよね。
ただ金もうけをすることだけを意味しているわけではない。
朝食事を作ることも働くことには違いがない。
自分が働くことから何を見いだすかが大切なのであって。確かに、働きたくない人もいれば働きたい人もいます。
老後は悠々自適の生活をと思う人もいますが、責任を持ちたくても責任を持てない状況に追いやられたあげく、自分の思いを断ち切らされて、ただ無為に年をとっていく事を強いられる人々がいるという事実です。
自分の知り合いは、何が辛いと言って年をとって誰にも必要とされず、相手にもされない事ほど辛い事はないと零していました。
未だ働きたいという人から働く権利を奪うのは、理不尽ですよ。



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