神について思う
義を尽くす
人は皆、わからないことを解ったとするから間違いを犯すのだと思います。
今、確かなのは、今、確かに自分は存在し、生きているという事実だけです。
そして、自分は、得体の知れない何ものかに生かされているという事です。
ならば、今、自分が存在し、生きているという事以外に何を前提とする必要があるのでしょうか。
今生きているこの瞬間・瞬間に自分を尽くす。それ以外にないと自分は思うのです。
その上で何を恐れるべきなのですか。それは自分が自分でなくなる事です。
生きるという事を前提として人生の行き先を見た時。人は皆死ぬという事実を受け入れるか否かがその次に問題となる。
だいたい、人は皆死ぬというのは語弊があります。
人は、皆、死ぬ定めにあるというのも仮説に過ぎない。
なぜなら、生きている者は死んでいないからです。だから、生きている者は死を恐れる。
しかしそれでも、仮に、死を必定だと言う前提に立てば、人は死の前に平等だと言う事に気がつく。
王侯貴族であろうが、独裁者であろうが、聖人であろうが、賢者であろうが、富豪であろうが、極悪人であろうが、貧民であろうが、軍人であろうが、スポーツ選手であろうが、坊主であろうが、死ぬ時は死ぬ。
戦争で死ぬのも、天変地異によって死ぬのも、交通事故で死ぬのも、病気で死ぬのも、自殺して死ぬのも、火事で死ぬのも、崖から落ちて死ぬのも、溺れて死ぬのも、死ぬ事には変わりないのです。
人は誰でも、例外なく死ぬ時は死ぬ。そう仮定すれば、死の前に平等が見えてくる。
それが平等の真の意味です。死は平等に訪れる。しかも突然に・・・。
だとしたら、何を恐れるのか。
だから、私は、自分が自分でなくなる事を恐れるのです。
人類滅亡ですって。要するに、人間が皆一遍に死ぬと言う事だけで、個人的に言えば、自分が死ぬという事実に何ら変わりがない。自分の死を恐れる以上に、人類滅亡なんて恐れる必要はない。
恐れる事があるとしたら、生きようとして足掻いて、足掻いて、自分が、自分でなくなる事です。
イエスはイエスです。
後世いかに人が、イエスを讃えようと、イエスが十字架に架けられた時は、イエスはたんなる犯罪人に過ぎなかったのです。
イエスを聖人と讃えるのは、後世、イエスを聖人とした者達の勝手です。
彼を十字架に架けたのも又人なのですから。
人がイエスを処刑したのです。それも残虐の手段を用いて。
イエスはもがき苦しみながら死んでいった。
そのイエスの苦しみは変わらない。
イエスを処刑した人がなぜ、イエスに許しを請う事ができましょうや。
それは人間の身勝手です。それでも、人は神に許しを請わなければならない。
イエスは、自らの運命を受け入れて従容として死に赴いたのです。
神を信じて。
神を信じられなければどの様な行為も無意味です。
神を信じるからこそ今の自分があるのです。
核戦争で人類がたとえ滅亡する事があったとしても、私は、自分の義を貫くしかない。自分を極めるしかないと信じるのです。
イエスは最後までイエスだった。それこそが真実なのです。
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