神について思う
金儲けが悪いと言っているのではない
金を儲けるのが悪いと言っているのではない。
金儲けの為に何をしてもいいという考え方が間違っていると言っているだけである。
金儲けの為に他人を犠牲にする事は許されないと言っているのである。
利益を上げる事が悪いと言っているのではない。
利益を目的とする事が悪いと言っているのである。
利益は手段に過ぎない。
利益を上げる目的は、人々を幸せにする為なのである。
お金が主なのではない。
生活が主なのである。
あくまでも、お金は従である。
お金の為に生きているわけではない。
お金の為に生活をしているのではない。
生きる為にお金が必要なのであり、生活をする為に、お金が必要なのである。
お金が主となり、生きる事が従となれば、人はお金の奴隷となる。
お金が主となり、生活が従になれば、お金の為に生活を犠牲にする事さえ厭わなくなる。
お金の為に、愛する者を犠牲にし、幸せをも滅茶苦茶にしてしまう。
お金は食べられないし、お金を材料にして家を立てる事もできない。
だけどそれはお金が悪いわけではなく。
お金の使い道を間違った人間が悪いのである。
お金で苦しんだり、争うのは神が悪いわけではない。
お金は人が作り出した物である。
神が作り出した物ではない。
我々は、経済の役割について本質的な錯誤があるように思える。
例えば、住宅について一方に空き家があるというのに、他方に、ホームレスの人々が溢れている。
一方で餓死する人がいるというのに、他方で食べ物を余らせて大量に捨てる人々がいる。
デフレーションやインフレーションがおこるたびに、貧富の格差が広がる。
生産量や消費量が変わらないのに、景気によって生活が一変してしまう。
働いても働いても生活が楽にならない者がいるというのに、働かなくても生活が保障されている者がいる。
生活に必要な物資が不足しているというのに、働き口がない。
これらの原因を作っているのは神ではなく人である。
なぜ、我々の祖先は、男女七歳にして席を同じゅうせずと男と女の関係を厳しく規制したのか。
それは欲望が人を不幸にすることを自覚していたからである。
金も又しかりである。
金も又欲望の源となる。
欲を解放するなら自制できなければならない。
十字架の前にあの方は跪かれ、なぜと、神に問うたのです。
しかし、神は何もお答えにならなかった。
でも、あの方は、たじろぐ事なく、運命を受け入れたのです。
なぜなら、そうするしか生きる事が許されなかったからです。
死は一定(いちじょう)。
だとしたら、何をたじろぎ、何を恐れる。
大切なのは、死に様であり、何を信じるかである。
死に臨んで、世の中の価値は、皆、虚しくなるのである。
人生夢幻のごとくと舞い踊り。
踊り終わったら乾坤一擲の勝負に出る。
勝敗は時の運。
悔いのない人生をいかに送り、いかに終わらせるかが肝心なのだ。
それが大和魂。
清く正しく美しく。
清く正しく美しく生きんとすれば、結してきれい事では終わらない。
夢をただ夢で終わらせたくない。
神が何も応えてくれないのならば、自分の信じる道を行うしかないではないか。
金もうけが悪いと言っているのではない。
金もうけの為に生を見失い、虚しく死んでいく事が愚かだと言っているのである。
このホームページはリンク・フリーです
Since 2015.12.26
本ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures
belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout
permission of the author.Thanks.
Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano