神について思う

神と事業



どこの国に行ってもその国で最も壮麗な建物は、宮殿か、宗教関連施設です。
正直、宗教ビジネスは儲かるのです。
だから、いかがわしく怪しげな新興宗教が乱立するのです。

何百万人なんて信徒がいれば、月々、わずかな会費でも莫大な額になります。しかも、税金がかからない。
でも、私は、神の名の下に金儲けをする事は堕落だと考えています。
もともとキリスト教やイスラム教は、金利すら許さなかったんですから。

商店街や遊園地、百貨店などでクリスマスをしたり、最近では、渋谷なんかでハローウィン等で若者達が大騒ぎをしますけれど、あれはまったく宗教活動とは無縁です。あれなどは、宗教に名を借りたビジネスが背景にあって敬虔なキリスト教徒にとっては侮辱されているととらえられても仕方ない。イスラムで同様の事をしたら殺されかねません。
大体、クリスマスでから騒ぎする者や教会で結婚式を上げる者の多くは、キリスト教徒ではないのです。
この様な行為は、異教徒による神への冒涜ととらえられても不思議ではありません。
フランスで起こったテロは、将にこのことが原因なのです。
言論の自由というのは、信仰の自由を否定するのかという事です。無神論者や異教徒がイスラム教が聖なる物、コーランやムハンマドを侮辱する事が許されるのかという事ですね。僕は、基本的には許されないと想っています。ただ、日本人はこの感覚が希薄ですね。
だからといってテロを認めてもいません。テロをする者も結局は神の名をかたっているのです。
僕にとって神は絶対であり、人間ごときの行為によって冒涜できるような存在ではないからです。それは神を冒涜しているのではなく、自分を卑しめているだけです。

私にとっての神は、私にとって絶対なのです。その軸がぶれなければ、信仰は絶対です。
神はあなたにとって絶対であり、あなたの魂を救済できる唯一の存在なのです。他者が介入する余地がないのです。人は皆、神の前に平等なのです。
肉体に貴賤はありません。頭だから尊くて、肛門だから汚れているなんて事はありません。貴賤を決めているのは人です。神ではありません。神は、全てに対して平らなのです。だから、神は、全ての人にとって唯一の存在であり、絶対的なのです。
故に、神の為に働く事に至福の喜びを与えてくれます。なぜなら、あなたの神は、あなただけを見ていてくださるからです。一人ひとりにとって神は、唯一で絶対だから、全体も唯一で絶対なのです。
大切なのは、自分が信仰を保てたか。神に対して正直に生きられたかです。それだけで十分なのです。
そういう存在は唯一でしかない。そうでなければ自己の統一性が保てなくなるからです。
個人の価値、仕事場での価値、友達とのつきあい上の価値、家庭での価値、親としての価値なんて信じる事を使い分けていたら、自分がなくなってしまいます。
この世の出来事は、所詮、人のなすことに過ぎません。神の栄光は、神を信じる者以外には理解できないのです。

僕は、宗教関連の事業というのは信者の相互扶助を目的とするか世の為、人の為でなければ許されないと考えています。

神は、金を必要としますか。神は御殿や豪邸を必要としますか。神は土地を必要としていますか。神は、地位や名誉、富を必要としますか。神は、豪華な料理を求めますか。神は、黄金や宝石を必要としますか。神は生け贄を必要としますか。神は血を必要としますか。神は憎悪を必要としますか。神は国境を必要としますか。神は権力を求めますか。神は武器を必要としますか。神は、軍隊を必要としますか。神は人を必要としますか。神は、争いを必要としますか。神は、競争を必要としますか。
これらを必要としているのは、神ではなく。人なのです。

飛ぶ鳥に国境はない。国境線を引いたのは人である。
豚に真珠、猫に小判と言うが、豚や猫は、真珠や小判の為に仲間を殺したりはしない。
真珠や小判に価値を見いだしているのは人である。

人が神を必要としているのであって、神が人を必要としているわけではありません。
あなたが神を必要としているのであって、神があなたを必要としているのではありません。
神が、必要としていない人やあなたを生かしているのは神の慈悲、神の愛以外の何者でもありません。
神の本質は、愛なのです。

これから高齢社会を迎えるに当たって高齢者が安心して集い、安らげる場所を提供したり、貧しい者を救済するような施設を建設したりする事です。
又、病気で困っている人がいたら助けたり。文字の読めない者がいたら、文字を読めるようにする。泣いている人がいたら慰める。孤独な人がいたら言って話を聞いてあげる。そういう事が宗教的事業ですね。
宗教的事業は、神の愛や慈悲を実現する事なのです。

しかし、それとても神とは無縁です。
なぜなら、それらの事業は人が人に対して為す事だからです。

信仰に基づく事業というのをあえて言えば、マザーテレサのような事ですね。しかし、マザーテレサは、最後には、宗派の壁を越えたと聞いています。
宗教的事業というのは、自分の信仰に基づく事業を言うので、神の為にする行為を言うのではないと考えています。信仰に基づく行為は、自分の精神の救済の為に行う事です。

僕は、神と自己との間に介在しようとする教団も教会も聖職者も一切認めていません。かといって否定する気もありません。なぜなら、神との関係は、僕と神との一対一の関係でしかなく。自分と神との間に何者も介在させなければいいからです。
その上で、自分が信仰する神を通じて人々の役に立てればいいのです。信仰は、自分の魂の救済なのです。神は、超越的存在なのです。

あなたが神の真実に目覚めたのならば、神はあなたを選ばれたのです。




マタイによる福音書

だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
ああ、信仰の薄い者たちよ。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。



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