神について思う
教祖と信者
戦後、日本人は、忠誠という事を否定された。
しかし、忠誠という生き方ほど、わかりやすい生き方はない。
ただひたすら尽くせばいいのである。
だからこそ日本人は忠誠心にあこがれるのである。
忠誠心の対象が見つかれば、ただひたすらに何も考えず尽くせばいいのである。
日本人は、戦後、献身的に、忘我になって、迷う事なく尽くす対象を見失った。
戦後の日本人は生きづらい。
ただ一途に信じ尽くせたら幸せである。
だから戦後の日本人は忠誠心に変わって愛を求めた。
しかし、愛は解りづらい。
愛は曖昧模糊として不確かである。
愛する者から愛されるとは限らない。
愛は双方向なのである。
それに対し、神や国はより確かである。
一方的な事だからである。
だから信仰と忠誠はわかりやすい。
問題は、信仰と忠誠の対象である。
忠誠を誓う対象は、神か、国家、主か、愛する者しかいない。
神は、永遠であり、国家は正義であり、愛は、情である。
教祖と信者どちらが幸せか。
それは信者の方に決まっている。
なぜならば、教祖は信仰を成就するのが難しく。
信者の方が信仰を成就するのが容易いからである。
大体、信者には迷いがない。
迷いがない分、信仰が成就しやすい。
信者は一途なのである。
死は、人間にとって避けられぬ現実。
死は生きる事の究極的な終着。
神の意志は死だ。つまり、神の意志は生きて死ぬ事である。
なぜ、何の為に生きるのかは、死によって明らかにされる。
生き甲斐の対極にあるのは死に甲斐である。
多くの日本の軍人は、天皇陛下万歳と言って死んでいった。
戦後生き残った者達は、それを不幸だという。
それは生き残った者の論理で死んでいった者の論理ではない。
あなたの為にと死んでいく者とあなたの為に死なれていった者。
どれほど、あなたの為にといわれて死なれながら生きていく事の重苦してことか。
それを受け止められるのは神のみである。
戦後生き残った人間には、錯覚がある。
まるで、死んでいった者が悲惨で、生き残った者の方が幸せだと・・・。
しかし、人はいずれ死ぬのだとしたら、戦争で死んでいった者を生き残った者が不幸だと言っているのに過ぎない。
死んだ人間の気持ちなど生き残った人間には解らないのだ。
死が終着ならば、ただ、苦しみのたうち回って生きるより、見苦しく生きるより、潔い死を望んでもおかしくはない。
死にたいという願望は捨てがたい。
釈迦は、生理的欲望と生きたいという欲望の他に死にたいという欲望かある事を見通している。
そして、この欲望をいかに断つかが肝心なのだとしている。
死は、終着なのである。
だとしたらいかに生きいかに死ぬかが人生なのである。
死の前に、人は平等である。
究極の神は死に神である。
死は苦痛なのか、安らかなのか。
戦後の人間は、見苦しく生きる道を選んだ。
戦後の知識人は、見苦しく生きる事を是とした。
それが焼け跡はと称する知識人の本性である。
彼らは見苦しく生き残り、生き恥をさらす事を美とした。
醜悪な事を美とした。要は、歪んだ精神である。
耽美的で、退廃的で、自堕落で、自虐的である。
人間は醜い。それが自然なのだとかって決めつけている。
間違ってはいけない。
しかし、それだけが美ではない。
清く、正しく、美しい生き方もある。
そして、神が望むのは純粋な生き方である。
私は戦後の知識人と称する連中が大嫌いだ。
人は確かに醜いかもしれない。
しかし、それがどうしたというのだ。
醜いからと言ってそれでいいと開き直ったら、醜いままで終わってしまう。
人間は醜い部分があるかもしれない。しかし、醜い部分ばかりではない。
また、醜い物を美しい物に変えようと努力する事もできる。
人生は過程に過ぎない。
死が終着というのならば、死ぬまで諦めずに、美を追い求めてこそ、真実がある。
それこそが信仰である。
神は、人の命を与えた。
人に死ねと命ずる神はいない。
神の名の下に死を強要するのは、神ではなく人である。
神は、死に向かって生きよと言われた。
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