2013年10月23日 11:07:32

神について思う

悲しい程無力で、哀れなくらい非力



悲しい程、無力で、哀れなくらい非力な自分。
何が正しくて、何が間違っているのか。

明日は息子の誕生日ですね。
誕生日は日本で過ごしますけれど、1週間もたたずにカナダに又行ってしまいます。
先日、東京ディズニーランドへ親子三人で行ってきました。
幸せな一時(ひととき)がいかに大事なのかを痛感させられました。
嗚呼幸せだなと感じられる一瞬一瞬の煌めきが、生きる希望に繋がるのだと思います。
最近、母もめっきり老けてきて。頭はしっかりしているのですが、段々に歩く事さえ鬱陶しく感じるようになってきたみたいです。
それが哀しいですね。
家内は、幸せであればある程、別れの時が迫ってくるのが、辛いみたいです。
いつの間にか大きくなって、自分達の知らない世界に旅立っていく息子を見ていると、
この一瞬一瞬が愛おしく感じます。
時折、今生の別れになるかなと言う思いがします。
昔、子供を戦場に送り出した親の事を思うと胸が締め付けられます。
岸壁の母ではないですが、いつまでもいつまでも立ち尽くすして待つしかないのかと・・・。
この一瞬に永遠が凝縮されているのですかね。

昨日、高齢者倒産の番組がありました。
仕事をしない子供かかえて年老いても働き続けなければならない父と、年金で子供達まで養わなければならない母。
老後は、悠々自適な生活が送れると楽しみにしていたというのに、
娘は結婚せず、息子は働きに出ない。
お父さんが働けなくなったらお終い。
母親が、「何の希望も持てない。」とポツリと呟く。
かと思えば、生活保護を受けていた父親の元に失業した息子が転がり込み。
親子二人が暮らすには、余りに心許ない収入。
卒中で倒れ、血圧が高くても薬代すら儘ならず。降圧剤すら飲めずに、病に怯える日々を送っている。
親子共倒れを危惧され事例が多く報告されていました。
今、始まりであって、やがて日本中に蔓延していく問題なのでしょうね。
子供は親を捨てられるけれど、親は子供を捨てられない。
親を捨てられない子は、親の犠牲になってしまう。
哀しい世の中になってきました。

遠くへ旅立っていく息子に・・・。
俺の事は忘れろとしか言えない。
足手まといにはなりたくないし、憐憫もまっぴらだ。

運命の前に、人間は、
悲しい程無力で、哀れなくらい非力だ。

何が正しくて、何が間違っているのかすら明らかにできない。
ただ呆然と立ちすくむしかない。

だから、私は、神を信じてきた。
無力で非力な自分だからこそ、神の前に立ち、神を信じる以外にない。
何を怨み、何を恐れているのか。

ただ一人暗闇に身を横たえる時。
私は神を信じるしかないのである。

そして、どれほど神に救われてきた事か。

所詮、人は、死ねばただ一人裸で神の前に立たされるしかない。
地位も、名誉も、富も何もかも剥ぎ取られ。
赤裸々に神の前に立たされた時、どれほど自分に誠実であれたかしか関係ないではないか。

悲しい程無力で哀れなくらい非力なのだから。
だからこそ、神に対して素裸になり、素直になり、素になれれば、道は自ずと拓けるはずさ。


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