2013年10月23日 11:07:32
神について思う
神の前に
吉田松陰は言う。
どんな人の人生にも四季があると・・・・。
終戦の日が近づいてくると戦争の悲惨さについて人は語り始める。
しかし、死という現実は誰にも避けられない事実なのである。
戦争で死のうと、事故で死のうと、病気で死のうと。
死は死である。
戦死者の話の傍らで子供が川で深みにはまり溺れて死んだニュースが流れている。
これも又痛ましい話である。
なぜ、平和な時の人の死は、忘れられ。戦争中の人の死はいつまでも語り継がれていくのであろうか。
それは、戦場では、死を直視せざるを得ない状況があるからだろう。
死を直視した時、人は、生を純化させる。
日常性の中で死が意識されなくなると生きる事の意義を希薄化してしまう。
戦争でなくとも人は毎日死んでいるのである。
死は、本来日常的な出来事なのである。
硫黄島という地獄を産み出したのは、人間である。
その地獄の中で人は生きて戦った。これは現実なのである。
硫黄島では、兵士は常に死と向き合い、生きるべきか死すべきかを問い続けた。
それは人の神経を研ぎ澄まし、魂を純化する。
なぜ、何の為に俺は生きているのか。
特攻隊は、問い続けざるを得なかった。
戦場に愛する者を、息子を、夫を送り出す母親や妻は、無事にと口に出すことも許されなかったというのに、なぜ、問わずにいられない。
なぜ、何の為に、誰の為に生きるのか・・・。
そして又死んでいくのか。
死ぬ事も生きることも表裏なのである。
戦争は、正夢である。
硫黄島という戦場を作ったのが人間ならば・・・。
原爆を作ったのも人間である。
原発の事故で故郷を追われた者が多くいるのも現実である。
問題なのは、この悲惨な状況を生み出しているのは人間だと言う事である。
硫黄島の攻防は、一ヶ月足らず、原爆は一瞬である。
その一ヶ月、一瞬にこの世に地獄が現れ、人々を情け容赦なく奈落の底に突き落とす。
人は鬼となり、餓鬼となり、幽鬼となり、亡霊となり、亡者となりこの地を彷徨う。
それこそが人間の業である。人間の心の底にある闇である。
戦争がなければ、平凡な人であり、日常的空間なのに、一度戦場になると、
よき隣人が、良き父親が、良き息子が、鬼となって人を殺戮する。
お母さんと叫びながら敵艦に突っ込んでいく。
母親は鬼とする為に、子を慈しみ育てたというのか。
幸せにも背き。愛にも背く。それでも尚、なぜ、戦わなければならないのか。
戦場を産み出すのは人間の業である。
私は、神に問う。
神が答えてくれないことを承知で・・・・。
それでも、敢えて問わずにはいられないのである。
なぜと・・・・。
しかし、
その先の答えは、確かに、人が人として出さねばならない。
そう覚悟をしなければならない。
それは神の問題ではなく。
人の問題なのである。
それが神の答えとしかいいようがない。
ならば、何に従って生き。何に従って死ぬかは自分で決める。
戦争が終わった日に些細なことで喧嘩をして死ぬ者もいる。
戦争が終わったことを知らずに戦って死ぬ者もいる。
不慮の事故で死ぬ者もいる。
生き延びて堕落する者もいる。
生き延びて何もかも失う者もいる。
折角、生き延びたというのに薬の中毒になって廃人になる者もいる。
戦争による死も、不慮による死も。同じなのである。
戦争だから死ぬのではない。死は宿命なのだ。
津波や大地震で家族も家財道具の全てを失いただ一人生きるのも・・・。
惨い。惨い。
自分の不幸を、堕落を戦争の性に、或いは、神の性にしたところで、何になるのだ。
死を見つめ。生を見つめる。
今でも、余命を告げられて生きている者もいるのである。
それでもなぜ、人は生きなければならないのか。
生きようとするのか。
私は、生きよという。精一杯生きよと。自分の人生を生きよという。
結局、自分は死に際して何もかも捨て去り、名も消え、裸で一人神の前に立たされるのだろう。
その事を覚悟した時、神が自分に何をさせようとしているのかが、解った気がする。
結局、信仰でしかない。
神の前では、天才も、凡才もなく。
金持ちも貧乏人もない。
王も乞食もなく。
名声なんて何の意味もない。
生まれてすぐ死のうと、百年生きようと、神の前では皆同じ。
人生は、夢幻。
神の前に立たされている自分は、一人の素裸な人間。
名前を残したいと言ったって、有名になったとしても、名は実体ではない。有名も、悪名も、所詮死んでしまえば虚しい。
いくら美味しい物が食べたいと言っても毎日、牛一頭食べられるわけではない。
人間が一日に実際に自分の足で動ける範囲なんて知れたものである。
あって話ができる人の数も限りがある。
どんなに偉くても、どんなに力があっても自分一人でできる事、思い通りにできる事なんて知れているのである。
人は神を超えられない。
自分の為だけに働いても虚しさだけが残る。
一人で食べる食事は淋しい。
どんな栄誉も友に喜び讃えてくれる人がいなければ哀しくなる。
喜びも、悲しみも分かち合うことができるから意味がある。
人は一人では生きていけない。
今の時代は、金が人と人との絆を引き裂くけれど、
幸、不幸は、誰と共に生きるかによって決まる。
何も信じる事ができなくなった時、神の存在だけが救いとなる。
一人になった時は、ただ、ただ、神を信じよ。
人は、自分以外の人生は歩めないのである。
なぜ、自分の人生を呪い、自分を卑しめるような生き方を選ぶのか。
一人の人間として見た時、一己の人間としていかに自分に誠実であったかが大切になる。
神の前で皆平等である。
死の前には人は皆平等である。
神の前では、どんな権力者も独裁者も一己の無力な人間なのである。
何を何したかが問題なのではない。
如何に、誠実に生きたかが大切なのである。
真か偽かは己自身に問うしかない。
自分が真実を極めたと思ったところで何の意味もない。
確かめようがないからである。真実と言っても所詮自分だけの真実でしかない。
それでも尚真実を見極めたいと思うのは、得体の知れない何ものかの力に突き動かされているからだろう。
だから、誰にも認められる事なく、泡のように消えていく運命だとしても、ただ一途に自分の信じたことをやり遂げるしかない。
それがどこかで人の役に立つであろう事を信じて・・・。
生きる。所詮、名声も地位も富も借り物でしかない。
その全てを神にお返しする時に、残るものと言ったらただ一途に生きたと言う軌跡だけ。
だからこそ、自分は何を信じてきたかの証しとして為すべき事をやり遂げるしかない。
死ぬ時は、名声や地位や富なんて持って行けやしないし。
名も消え、絆も断ち切らなければならない。
ならば自分の極めた真実しか神に捧げるものはない。
その時、本当に神の使命を果たせるのかもしれない。
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