神について思う
しょうもない奴等
先日、弊社の役員が以前弊社に勤めていて癌で死んだ社員の命日にお墓参りしてきたけれど誰も墓参りをしていないみたいで墓が荒れていると言うんですね。
もう13回忌はずなんだけどと・・・。結構家族運が悪くて、職場結婚をしていながら離婚して、最後は、子供にも逢わせてもらえなかったんですね。
そんな社員の事を覚えていて、それじゃ墓参りに行くかと言う事になりまして。そいつは、死んだ社員の死んだ年も死んだ日も覚えていて。凄いなって思いました。
仲間なんですよね。なんだかんだ言っても。
そうしたら次の日、社員の一人ができちゃった結婚ですけれど、二度目の結婚が決まって。嬉しいですよね。
その後末期癌のお客様をお見舞いに行きましたけれど、言葉がない。でも淡々としていらっしゃるんですよね。
立派だなって思いますよ。
毎日死と向き合っているはずなのにですよ。真似できないなと思いました。人間、一人ひとりに人生があって。何があったとしても一所懸命生きて、そして、淡々と死んでいくんですね。どんな人生だったかではなくて、今という時間を如何に生きていくかですよね。悔いない人生をと言うけれと、後悔なんて考える暇も、余裕も与えてはくれない。ただひたすら、この時、この一瞬を全力で生き抜いていくしかないなと・・・。
来年、再来年と又桜の花を一緒に見れたらいいなと・・・。
夢のように過ぎさっていきますよね。
僕は、社員がどうしたら幸せになれるか、そればっかりですね。
世の中には、愛人の数とか、酷い奴はやった数だの一物の大きさだのを自慢にする奴もいますが、そんな数自慢にもならないと思っていますよ。
どれくらいの人を幸せにできたかという数ならいざ知らずですね。それなら自慢できますけれど。一人の女を幸せにもできずに何をいってんだって思いますよね。僕も思う。ただ、禁欲も人を凶暴にすると思っていますけれど。何でも程々じゃあないですか。
会社なんてただでかくすればいいというものではない。僕はそう思うのです。
自分は、会社経営というのは、どれくらい人を幸せにできるかだと思っていますね。それ以外、何の意味もない。金儲けなんて手段ですよ。
金を儲けなければ、人を幸せにできないけれど、金を儲けたからと言って人を幸せにできるわけでもない。
金儲けの為に、人の幸せを犠牲にするとしたら、本末転倒ですよね。
最近、やっとその辺の事が解ってきましたね。
金をやれば人は幸せになれるとは限らない。金の為に人生を棒に振った者なんていくらでもいる。
肝心なのは、心持ちですよね。
金は人を幸せにも不幸にもする。だから、給料を上げればいいとは限らない。
社員一人ひとりの生活実態や性格、それに働きに合わせてですね。でも、そんな事今の世の中には通用しない。
金儲け主義に徹して社員を馬車馬のようにこき使うか。
それとも平等主義にかぶれて何でもかんでも平等にしてしまうか。社員の成長や教育なんて無視して、休日や福利厚生を増やすか。
でも幸せのあり方なんて社員一人ひとり違うし、僕らの若い頃は、若い者に必要以上の金を持たせたら碌な事に使わないと、仕送りさせたり、家にお金を入れさせたり。親も心得たもので、仕送りされた金をチャンと貯金していてくれたりしたものである。
現代社会は刹那主義なのである。又、唯物主義でもある。人の心なんてどうでもいいと思っている。
昔は、どんな社会でも大人になって困らないようにと子供を厳しく躾けた。
皆、同じ、同じというけれど、現実には、同じ人間はいない。無論、いわれなき差別は許されないが、違いを否定してしまうのもかえって不平等である。
現実を正しく受け入れなければ正しい判断はできない。
人の世のは相対的なのである。できのいい悪いも相対的。全てが、できがいいというわけにはいかない。できがいい人間がいるという事は、できの悪い人間もいるという事である。
全員が東大に入れるわけではないし、東大に入れない者は人でなしというわけではない。
東大に入れないからと言って人として駄目というわけではない。
ところが東大出みたいな人間が人を見下したように平等論を言い出す。
世の中には、三割はしょうもない奴がいる。頭も悪いし、要領も悪い。計算もできない。どうしたってそういう人間はいる。でも彼等だって人間なんですよね。
人並みに生きている。そういう人間の存在を無視する事は、かえって差別なんですよね。
そりゃあ、優秀な人間集めれば大きな仕事ができるかもしれないです。
でも僕はあんまり関心ないんですよ。ここだけの話。
阿呆な奴らだけど、そのしょうもない人間だって生活がある。家族がいるんですね。養っていかなければならない。違いますか。
頭のいい人からみれば彼等の事なんてどうでもいい。虫けらみたいなものなんですよね。
でも僕、その虫けらみたいな連中が好きなんですよね。頭にくる事にね。
裏切られても、騙されてもですよ。
僕は、人に背かれ、信じられなくなった時、いつも自問自答するんです。確かに、人間なんて信じるに値しないかもしれない。でもだからといって人を信じるのを止められるかって。お前は自分の信念を曲げるかと・・・。
そんな事できやしませんよ。大体、最初から覚悟していた事なのですから。
馬鹿でどうしようもないけれど、彼等を信じなければ、一日たりとも生きていけない。
僕はだから、奴らにいうです。お前ら、俺に信じられますかと聞くけれど、信じられるわけないじゃないか。
大体お前らみたいな、しょうもない悪党を。
信じられるか、信じられないかと聞かれれば、信じられませんとしか答えようがない。
だから、俺は信じるんだよと。死んだ気で信じてきたんだ。これは一種の信仰ですよね。
その為に、身の破滅になったとしてもそいつは仕方ないじゃないですか。
女房子には迷惑をかけますけれどね。
以前、大手の人間が付加価値、付加価値と言うから、付加価値、付加価値と言うけれど、付加価値の意味解っているのかって怒鳴ってやったんですね。
世の中の人間全てをSEにしたって意味がない。あんたら、配送の連中の代わりに輪っぱ回せますか。容器転がせますか。世の中には、しょうもない人間3割入るんです。
フランス代だイギリスだと言った先進国でもですね。そう言ったしょうもない奴らに人並みの生活をさせるのも仕事だって。付加価値というのは、高度の技術ばかりを指して言うわけではない。
昨日も朝礼でいたんです。世の中サッカーで沸き立っているけれど、世の中の為になっているかと言ったら、余程、弊社の配送の仕事をしている連中の方だ。サッカーができなくなったって世の中困りはしない。でも配送員がいなくなったらすぐに困る。なのに、彼等は、一向に脚光を浴びる事はない。せめて僕らが帰ってきた時、笑顔で迎えてやろうじゃないかって。ほんと拍手して迎えたいくらいですよ。
馬鹿を馬鹿にしてはいけない。皆、人権だ何だなんて言っているけれど、本当に彼等と一緒に泣いたり笑ったりして生きていく覚悟なんてしてはいない。
才能のない者は才能がないが故に、苦しみ。才能のある者は、才能があるが故に苦しむ。苦しむ事に違いはない。
何が人を幸せにするのか。何が人を不幸にするのか。それは、己の心の底にある何ものかを信じるか否かで決まる。
俺は馬鹿を馬鹿と言ったって彼等は怒ったりしやしない。でも、一見彼等の生活向上なんて言っている奴の方が、ずっと彼等の心情を理解していなかったりするんですよね。
彼等に、同情も憐憫もいらない。ただ、人並みの人生が、生活が送れるようにするだけです。
弊社の中心を担っている者が言っていました。
自分は、今まで、社員一人ひとりと向き合ってこなかったと・・・。
でも、それはそれで大変ですよ。それは、社員一人ひとりの人生を背負い込む事になりますからね。
どんなに思っても通じない時も、人もいます。
信じて、騙され、裏切られ、それでも信じるのかと・・・。
死ねとばかり、厳しさを貫かなければならない時もあります。
血を吐く思いで人を叱責しなければならない時もあります。
自分の事棚に上げて人を責める事もあります。
自分の手で、罰したり、辞めさせなければならない時もくる。
他人のやった事で責任を問われる事も・・・。
言い訳が通用しない事も・・・。
誹謗中傷を受ける事も・・・。
でも、その一つひとつがきっと彼女を成長させるんだと思います。
今は、ただ、ただ信じて見守るだけですね。
僕は、10年も以上前に死んだ社員の命日を覚えていない。でも弊社の役員の中には、覚えていてくれる奴がいる。
本当にありがたい事です。
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