2001年1月6日
神について思う
感 謝
信仰は感謝なのです。
神への感謝なのです。
生かされている事への感謝なのです。
だから、喜びなのです。
子供が一生懸命勉強をするのは、親を喜ばせたい為である。
女性が、化粧をするのは、好きな人の為である。
人の為に尽くす。人に仕えることは、隷属ではない。喜びなのである。中でも、神や国に仕える事は至高な喜びである。
一生懸命、親のために尽くしたのに、何も親は感じない。喜んでもくれない。
それこそ最もひどい仕打ちである。
私達のことはどうでもいいから、と言われるのが、子供にとってどれを辛いことか。
だから、子供達は、心を塞(ふさ)ぎ、引き籠もるのである。
それは、親のために犠牲になるのではない、喜びなのである。
国のために働くのは、犠牲になることではない。生かされることなのである。
神に尽くす事は、神への服従でなく、神への感謝なのである。
子供は、親を喜ばせるために夢中になる。
親は、子供の笑い顔が見たくて一生懸命働くのである。
子の為、親の為に働くのは、義務や犠牲ではない、喜びなのである。
自分の為なのである。
愛は、神の栄光である。
愛を貫くのは、自分の歓喜である。
愛は神への感謝である。
神のために働くのは、生きる証である。
神の栄光のために働くのは、自分の為なのである。
神の栄光のために働くのは、生きている事への感謝なのである。
日本人は、科学は、神と無縁なところにあると思い込んでいる。
科学は神を否定していると勝手に決め付けている。
無神論こそ科学的なのだと・・・。
科学こそ神の摂理を学ぶ事である。
科学こそ神を怖れるなければ成し得ないことである。
科学こそ神の恵みへ感謝である。
科学こそ敬虔な神の真理である。
科学こそ、神の恵みに対する感謝なのである。
信仰は、自分の為にある。
神の為ではない。
自分の祈りが神に届かなかったと言って
神を恨んでも仕方ない。
なぜならば、信仰によって癒されるのは、自分なのだから。
信仰によって救われるのは、自分なのだから。
信仰によって癒されるのは、神ではない。
信仰によって救われるのは、神ではない。
だから、ただ感謝するだけである。
他人(ひと)が神を信じなくてもいいではないか。
他の人が神を信じられないからと言って、
神が信じられなくなるわけではない。
他人がどう思うか、なんてどうでもいい事である。
信じようと信じまいと関係はない。
信仰は、他人に強要するものではない。
ただ、信じる喜びを分かち合いたいのだ。
私は、奇蹟を期待しない。
それは神を試すことだからである。
ただ、神に感謝するだけである。
神に感謝するだけだ。
信仰は、感謝である。
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