2013年10月23日 11:07:32
神について思う
学ぶと言う事
現代人は学ぶと言う事を忘れてしまった。
今の人は、学校で学習する事を学ぶ事だと思い込んでいる。
資格のある先生がいて、その先生が教える事を絶対だと思って学習する事を学ぶ事だと思っている。
学校では、教科書が絶対である。
教科書に書かれている事を絶対としなければ教育は成り立たない。
つまり、現代社会では教科書は聖典なのである。
だから聖典に反する事を教える事は許されない。
だから、私は、子供に何も教えられない。
又、教えたとしても子供に馬鹿にされるだけである。
現実に、私は子供に何も教え競れなかったし、子供は私から何も学ぼうとはしなかった。
自分は子供に何も教えられないだろうし、教えられもしない。
教科書は教科書である。
聖典ではない。
学ぶべき事は真実にある。
教科書に書かれている事は真実ではない。
真実は、生きる過程で体得していく事である。
なぜならば、真実は生きる事の中にあるからである。
自然に接し、自然の中で学ぶ。
それが学ぶ事である。
哲学を教える事は出来ないとカントは言ったと聞く。哲学する事は教えられると。
日本人は、哲学学者はいても、哲学者はいない。
経済学者はいても、経済を学ぶ者はいない。
それは真実から目を背けているからである。
子供から目を背けたら、子供を教え導く事は出来ない。
今の教育は単なる労働に過ぎない。
子供はカナダに留学をした。
外国はまだ日本よりましだと聞く。
しかし、子供は私から何も学ぶ事はないと思っている。
哀しい事だが、それも神の意志なのかもしれない。
真の学ぶと言う事は、神に学ぶ事である。
自分の目で見て、自分の頭で考えて学ぶ事である。
貨幣価値は数である。
数も人が創り出した事である。
人が創り出した事は、意味がある。
その意味を知らず数を学んだ所で、それは、学んだ事にはならない。
金額が意味する事を学ばなければ、経済の真の意味を知る事は出来ない。
数学者も数の本質を理解しているとは限らない。
科学者も科学の本質を理解しているとは思えない。
本質を理解しているとしたら、なぜ、破滅的な兵器を開発する事に血道を上げるのか。
科学技術によって人が住めない世界にしたとしてもそれは人の罪である。
破滅的な兵器によって人類が滅亡するとしてもそれは神の意志ではない。
人はなぜ神に学ぼうとしないのか。
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