神について思う
死ぬという事
志に殉じるのも、事故死も、病気で死ぬのも。
死という意味では同じ事だ。
ただ、どんな死に様をするかが大切なのだ。
人は、死を前にして本性をさらけ出す。
気取りようがない。
どんな王侯貴族、大富豪でも、また、英雄豪傑でも、悪党でも、貧乏人でも、凡人でも。
死は平等に訪れる。
しかも、人は、死に際し、一人裸で神の前に立たされる。
そして、己が素となれば、嘘、偽り、誤魔化しようがないのだ。
嘘をついても、偽っても、誤魔化しても己と神しか存在しないからである。
嘘をつけば、嘘となり、偽れば偽りとなる。
それに気がつけば、あるがままの自分をさらけ出すしかなくなる。
そうなるといかなる英雄豪傑、天才も何もなくなる。
あるのはあるがままの自分なのだ。
だから、己に恥じるような、己を偽るような、生き方をしたら、神の前に立たされた時、己の真をあからさまにされるのである。
ホームランの世界記録を作らないと感激をしない人もいれば、ヒット一本打って涙を流す人もいる。
どちらが優れた人生かなんて言えない。
ただ、身が震えるほどの感動ができたという点では平等なのだ。
だから、神は平等なのである。
人の人生は、たった一つしかなく。その人しか演じることが出来ない舞台なのである。
そのたった一つの人生を大切に、大切に生きていけば、きっとその先に一つの光明が見えてくるはず。
その光明こそ神なのである。
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