神について思う

神は人類を滅ぼしたりはしない。



神は、人類を滅ばしたりはしない。
人類が滅びることがあるとしたら、それは、人の力によって滅びるのである。
確かに、人類の力ではどうにもならない天変地異もある。
しかし、それでも神の意志で人類が滅ばされるわけではない。

今は信仰心なき世である。
人は、驕り高ぶり、神の力を得たと思い込んでいる。
科学を万能だと思い込み神の如く信じている。
仮に神の力を得たとして、それを神の心でその力を制御できなければ、かえって惨禍の種になるだけである。
科学なんて信じてはいけない。信じるべきは神なのである。

人は金さえあれば何でも出来ると思っている。金を神の如く崇めている。
中には、神を金儲けの道具にすらしている者さえいる。
金銭感覚は大切だけれど、お金に囚われたら、経済や経営の本質は見えなくなる。
今の日本人は金銭感覚に疎いくせにお金に囚われている。故に、経済や経営の本質が見えないのである。
私が大切にしたいのは心である。
心が貧しくなったら全てが貧しくなる。
金儲けは手段であって目的ではありません。いつの間にか金儲けが目的化してしまっている。
金儲けが目的化すれば、金儲けの為に生きる事になる。それでは守銭奴になってしまう。

自爆テロのようなことを神は望まれるはずがない。
自爆テロを望んでいるのは人である。
神は生きよ。幸せになれとおしゃられている。
無言ではありますが、ただ生きるということ自体が雄弁に語っている。
人は皆、神の祝福によってこの世に生まれるのである。
だから、誰もが幸せになる権利がある。
しかし、それを実現するのは、自らの心である。
幸せになりたくない、幸せになりたくないと生きる者が何と多くいることか。

神の本質は愛である。神は赦し癒やしてくれる。反面、神は峻厳でもある。
自らの心に問うて過ちに気がついた時、悔い改めなければ許してはくれない。
神は、絶対であり、無分別な存在なのである。

神を冒涜しても神は咎めやしない。怒るわけでもない。
なぜなら、神を冒涜して汚れるのは自分の魂である。
神は冒涜されたからと言って何も変わらない。
だから、神を冒涜するのは、冒涜した者の問題である。
神を冒涜した報いに怯えるのならば神を恐れるのではなく。
自分の魂が病んでいる事を心配すべきなのである。

私は、他の人に自分の信仰を強要したりはしない。
強要した所で真の信仰をもたせられるわけではないからである。
信仰は、その人が神に目覚めた時始めて成就する。
神は、常に目の前に居られる。

神を欺くことは出来ない。
神は全てをお見通しなのである。
なぜなら、神は、あなたの心と通じているからである。


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