2001年1月6日 11:07:32
神について思う
人は、神の前に平等である。なぜならば、神と自己との関係は、一対一の関係だからである。神と自己との間に比較すべき対象が入り込む余地がないからである。つまり、神と自己との関係は、絶対的関係なのである。それに対し、自己と他者との関係は、一対多の関係である。つまり、人と人とを比較する事によって成り立っている。つまり、人と自己との関係は、相対的関係なのである。
認識が、相対的である以上、違いは生じる。違いこそが相対性の原理だからである。人の社会は、認識によって生まれる。社会は、人間の意識が生み出すものだからである。夕に、人間の社会は、相対的なものである。そこに差が生じる。その差から生まれる事象は、人間の認識に帰す。神がもたらすものではない。それを正すのは人である。神ではない。
最近の幼稚園では、競争をしても、全員が手を繋いでゴールするそうである。それが平等だという。しかし、オテテ繋いでゴールしたところで、能力の差がなくなるわけではない。なぜ、手を繋いでゴールをしてまで競争をする意味があるのか。競争する意味は、自分と人との違いを知るためである。人との違いを知ったからと言って平等が損なわれるわけではない。むしろ、競争で差がついたからといって、卑下することがないように指導するのが教育である。手を繋いで、一緒にゴールするくらいなら競争なんて最初からしない方がいい。それは、教育者が自分の怠慢を棚に上げているだけである。オテテ繋いでゴールしたのでは競争する意味がないのである。物事の本質が解らなくなるだけである。
人は、皆、平等だという。その反面、人は、皆、違うとも言う。この二つの命題は、矛盾していない。二律背反の関係にあるわけではない。平等は、存在に関わる問題であり、違いは、認識上の問題なのである。
即ち、平等は、自己と神との関係から生じるのであり、違いは、自己と人との関係から生じるのである。
平等と違いの混同が、人間の社会に混乱をもたらしている。そして、平等を同等と錯誤する原因となっている。
何もかもを同等に扱おうとすると、既にそこに差別が生じる。なぜならば、人は、皆、違うからである。違うものを同等に扱えば、自ずと差別が生じる。男と女を同等に扱えば、大人と幼児を同等に扱えば、自ずと差別が生じる。差別は、認識上の問題であり、存在の問題とは次元を異にしているのである。故に、違いと平等を、そのままでは、同じ次元で語ることはできない。同じ次元で語ろうとしたら、何らかの基準に還元しなければならなくなる。平等にしたからと言って差別がなくなるとは限らないのである。
人は、死の前に平等である。しかし、死に至るまでの過程、扱いは、平等ではない。死に至るまで面倒を見てもらえる人もいれば、見捨てられる者、殺される者までいる。死の前に平等と言う事と、人として同等に扱われるという事とは違うのである。死の前に平等だからといって同等に扱われるとは限らないのである。死は、存在に関わる問題であり、どう扱われるかは、認識に関わる問題なのである。
そして、認識は、属性に対して為される。存在に違いはない。違いは、属性にこそある。存在に属性はない。故に、存在から差別をすることはできない。存在は、平等なのである。神に属性はない。故に、神を差別することはできない。神は分かつことのできない存在、絶対なのである。
人の行いによって生じた矛盾は、人が、人の行いを正さなければ直らない。神を責めたところで無駄である。人が自らの行いを正さない限り、この世から差別はなくならない。なぜなら、差別を生み出すのは、人間であり、神ではないからである。
平等というのは、大変に厳しいことである。平等や自由というのは、良い事尽くめみたいに言われているが、実際は、大変に厳しい事である。だから、成人にたっする以前の人達は、平等に扱わないのである。むろん、平等や自由は、素晴らしいものである。しかし、それ以前に、平等や自由を実現するには、厳しい現実が待ちかまえていることを自覚させなければならない。自覚しないまま、社会に出れば、社会に適合できずに、阻害されてしまう。そうなってからでは手遅れなのである。
平等や自由が厳しいというのは、平等や自由の裏側に、自己責任が、どこまでもついてまわるからである。そのことを忘れてはならない。
平等にせよ、自由にせよ、その意味もわからずにありがたがっている。しかし、平等も自由も自己概念を核とした概念である。自己が定義されていなければ、その意味は明らかにされない。そして、平等は、自己と神とが対峙することによって成立する概念なのである。人は、皆、神の前に平等である。なぜならば、神と自己との間は、一対一、かつ、絶対的な関係だからである。この事を抜きにして、平等は語れない。平等も自由も、そして、博愛も神と自己との関係によって成り立ている。それ故に、真の平等は、神と自己との関係を知る事によって明らかにされるのである。
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