2013年10月23日 11:07:32

神について思う

穢れと汚れ



穢れや汚れというのは人の意識が生み出す感情である。

神は無分別である。
神は、人の肉体に貴賤の区別をしたりはしない。
頭だから、清くて、肛門だから汚いという事はない。
頭は尊く、肛門は汚いとするとしたらそれは人である。
それは人の意識が差別をしているのである。
差別は人の意識がする事である。

意味もなく汚いと思い込み、汚らわしいと決めつけ、穢れているとする。
その多くは、先入観や偏見、思い込み。
それが嵩じると差別の原因となる。
人種だの、職業だの、家柄だの、学歴だの、病気だの、性別だと、言われない理由で人を汚いとか、穢れているとかいう。
突き詰めてみると、その人、好き嫌い。感覚や感情。
結局、自分の歪んだ心に帰結する。

自分の過ちや醜さを他人に投影しているに過ぎない。

私から見て不潔だとか、汚く見えな様な事でも、不潔だと汚いと遠ざける人もいる。
潔癖症な人が、母親になると自分の赤ん坊の便を平気で見るようになる。

少しでも、他人の便が体に触れたら、大騒ぎ、一日、穢れて感じる事もある。
それは、自分の意識が汚いと思わせるのである。
しかし、医者や看護士は、平気で人の便を扱う。
汚いとか不潔だとするのは、実際に汚いとか、不潔とかいうのではなく、その人の穢れがそう感じさせるのである。

確かに、汚いという意識は、自分の身を守るという働きもある。
臭いとか、汚れているとか、不潔というのは、黴菌や毒、危険な存在から自分の身を守るという事もある。

しかし、そう言った自分の身を守るという意識だけでなく。
罪の意識もある。嘘をついたとか、騙したとか、馬鹿にされたとか、差別したとか、何らかの罪悪感が穢れの意識を産むのである。

時には、自分を罰している事すらある。

神は、基本的には無分別なのである。
穢れとか、汚れを取るためには、自分の魂を浄化するしかないのである。

それは、神の赦しを受け入れるしかない。

神は、人を救済する事を目的とされているように思える。
突き詰めてみれば、神の救済を受け入れる事に依ってしか、人は自らの穢れや汚れを浄める事は出来ない。

神の救済によって自らの魂を浄めるしかないのである。
人にとって信仰は唯一の救いである。


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