2014年12月31日 11:07:32
神について思う
権威と象徴
我々の世代は、反体制的、反権力的教育を受け続けてきた。国家が反権力的、反権威的教育をするというのもおかしな事だが、しかし、何はともあれ、私たちは、反権威、反権力的な教育をされ続けて今に至っている。故に、権威的な事、権力的な事は悪い事だと当然のように思い込まされている。
だから、権威と聞くだけで身構え、否定的、批判的になってしまう。
しかし、権威や権力がなければ組織の統制がとれなくなる事も身を以て知っている。そこにジレンマがある。権威や権力は悪だと思い込んでいるかぎり、このジレンマから抜け出しきれない。
更に、権威が悪いという事は、組織的な事も悪い、上下関係も悪い、規律や統制も悪いという事にまで拡張される。
権威主義的、形式主義的と言われるだけで馬鹿にされているような侮蔑的な意味も含まれていた。権威主義は、即、反民主主義的で、封建的で、全体主義的だと決めつけられた。
その背景には、革命思想が隠されていたと思う。
体制の権威を否定する事で、統制や規律を弱め革命的状況を作り出そうという意図が隠されていたのである。
その証拠に革命的勢力程、規律や統制を重んじ、権威を護る事に腐心してきたのである。
それは彼等が権威の重要性を熟知していた事の証である。
だから敵対勢力に反権威、反権力の思想を吹き込んでいるのである。
現代社会では組織を否定する事自体意味がない。人は一人では生きていけないのである。
組織とは統一的な行動をとらなければならない状態に置かれる。組織は一体なのである。
そうなると組織を否定しないかぎり、統一性を求められる。統一的行動は、必然的に統制を必要とする。
組織の統一性を保つのは権力か権威かである。
権力か、権威かというのではなく。組織の統制を保つためには、その双方の働きが必要となる。
権力は力によって組織の統一性を保とうとする事であり、権威は、礼儀や規範、儀式、象徴等といった形式によって統一性を保とうとする事である。権力は人により、権威は礼による。
権威による統制が出来なくなると個人の力による統制をとらざるをえなくなる。個人の力には限りがある。
また、組織化拡大するの連れて統率力は弱くなる。
組織は情報系である。意思の疎通がとれる範囲では権威や権力に依らなくても統一性を保つ事は出来る。
しかし、組織が拡大するにつれて意思の疎通をはかるのが難しくなる。
その為に、強権をもって組織の統制を強化しようとする。
権力の働きを補うのが権威である。
権威を否定したら私的暴力に支配される事となる。
組織は、序列によって保たれている。
組織的意志決定は、中心が必要であり、組織の中心は頂点を形成する。
重要なのは、何を権威とするかなのでって権威そのものが悪いのではない。
何を権威としているのかは、組織理念によるのである。
権威は元となる思想によって働きが違ってくる。
権威は、象徴によって表現される。
象徴は、象である。象は、形である。
象徴は、形で思想を表したものである。
象徴にとって大切なのは言葉ではなくて形である。
形の意味する事が象徴の本質である。
形の意味する処は美である。
真より、善より、美である。
象徴は、権威を表現したものである。
故に、権威は形式美でもある。
時として人は善悪を超えて形に魅了される事がある。
権威を行為として表した形が礼儀である。
組織は礼儀によって統制がとられる。
権威の否定は、象徴、シンボルの否定でもある。
それは、体制を措定する者や手は対する国による国歌、国旗の排斥にも結びつく。
多くの国は敵対する国の象徴やシンボルを攻撃する。又、その国の国民に象徴やシンボルを攻撃するように仕向ける。
組織では、何が正しいかという事よりどう治めるかの問題が重要なのである。
指導者にしても、批判者、忠告者も自分が悪いとは思っていない。自分は正しいと信じている。自分が悪いと思ったらやっていられない。自分が悪いと知りつつ自分のと押し通そうとしたらそれは、まったく次元が違ってくる。それは相手を欺く事であり、悪意がなければ出来ない。
意見が異なる者も自分は自分で正しいと思っている。
自分と意見を違える者も含めて統率しなければならないとしたら、相手の言い分にもそれなりの妥当性があるとしたら、自己を超えた処に何らかの権威を認めなければならなくなる。
絶対的権威というのは、神でしかない。
故に、指導者は信仰心を持つ必要がある。
人は、生まれた時も何らかの組織に属している。
しかし、それは自分の意志による事ではない。
大切な事は、約束である。約束をし、約束を守る事である。
約束は大切である。約束は守らなければならないと教えられる。
しかし、なぜ、約束は守らなければならないのか。その点は教えてはくれない。
約束を破ったらどうなるのか。約束を守らなかったらどう言う報いを受けるのか。
約束を破ったら、信用をなくすとか、友達を失うと言うぐらいしか問題にならない。
その点を理解しないと法治国家、契約社会の意味は理解できないし、また、自由主義経済は成り立たない。
約束の根源は、神に対する誓いなのである。神に対する近いとは、神に対する約束であり、それは突き詰めると自分との約束なのである。だから、契約は法の根源となり得るのである。契約に基づかない法とは、恐怖の代償でしかない。法を犯したがばれたら罰せられるそれが怖いから法を守る。それが信仰に基づかない法であり、法の効力の説明なのである。しかし、近代法は信仰を前提としている。
それは世俗的な刑罰を怖れるから法が効力を発揮するのでにはなく、神をそして、その対極にある自己を怖れるから法は、効力を発揮するのである。だから、法は、厳格であり、非人情であり、中立的でありうるのである。
契約や法の根源は神との自己との約束である。故に、法は、自己の存在に関わる事なのである。だから、他人は許せても自分は許せないのである。自分を許せるのは神のみである。
そこに絶対的権威の存在がある。
父も、母も、恩人にも許せない事でも、神は許せる。それが権威の存在理由である。
契約とは約束を成文化したものである。
神に、誓うのである。自らの意志で神に誓うのである、
神に誓う事で新たなる権威を生み出すのである。
新たなる権威は、新たなる絆を生み出す。
人は一人では生きていけないのである。
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