2013年10月23日 11:07:32

神について思う

神と民主主義


最近の民主化運動や市民活動を見ていると、民主主義者や自由主義者には、幻想があるように思えてならない。
民主主義というのは現実である。理想ではない。民主主義は生々しい現実である。
多くの人は、民主主義は、万能であり、民主主義体制さえ出来れば民主主義は実現できると錯覚しているように思える。
しかし、民主主義は万能ではない。
又、民主主義体制が整えば、民主主義が、即、実現できるものでもない。
制度や仕組みを創れば民主主義が実現できると思うのは、大きな間違いである。
民主主義は、国民一人一人が自分の信念に基づいて築き上げていく仕組みであり、一朝一夕に成就する事ではないのである。
民主主義は、いろいろな条件が整わないち実現できない。
非常に稀な体制なのである。簡単にできるものではない。

魂のない肉体は骸である。
肉体だけ出来ても魂が籠もらなければ民主主義は成就しない。
魂のない肉体は、骸である。ただ醜く朽ち果てていく運命にある。

民主主義体制に魂を込めるのは神である。
故に、民主主義は信仰によって生まれ、育まれる。
民主主義を生み出すのは熱狂である。

自由も、平等も、友愛も、神の賜であって、所与の事ではない。
神をの愛を受け入れないかぎり、神への信仰を持たないかぎり
真の民主主義は実現できない。
民主主義は人の意志があって実現される。
しかし、その意志は、神への信仰によって裏付けられていないかぎり、普遍性は、得られないのである。
民主主義の正当性は、神への信仰によって保証されているのである。

民主主義は葛藤から生まれる。
民主主義は暴力によって成就する。
荒々しい体制なのである。

自由主義国は、幻想を抱くべきではない。
民主主義は万能ではない。
民主主義は、制度、仕組みによって表現され、制御され、維持される思想なのである。
民主主義は、その基盤が確立されるまで混乱状態が続く事を宿命付けられているのである。
逆に言えば成熟した民主主義国というのは、希有な存在だと言う事を忘れてはならない。
自由主義国、民主主義国に生まれた者は、そのありがたみをともすると忘れてしまいがちである。
言論の自由、思想信条の自由、集会の自由、結社の自由というのを所与の事、自明な事として当たり前に受け止めるが、これらの自由を確立し、維持するために、どれほどの血が流されたかを自覚しなければならない。
又、自由ほど繊細な事はなく。簡単に失われてしまうという事も忘れてはならない。

信仰のみが混乱を収束する事が出来る。

神を否定する者は、自己を絶対化しなければならなくなる。
自己を絶対化するという事は、自己の善悪を絶対化する事である。
自己の善悪を絶対化したら、他者の善悪は、否定される。
特定の個人の自己を絶対化すれば他者の自己は否定される。
他者の主体が否定されれば民主主義は成り立たない。

人は、完全無欠にはなれない。
神は、善悪を超越した存在である。
神は、人の善悪に対して中立的な存在である。
故に、神によって人の善悪は相対的となる。

法の根源は、人の善悪である。
法は、人の善悪に対して中立的でなければならない。
法に偏りがあってはならない。
法は絶対ではない。
法は契約であり、相対的な事である。
法は、自己善が複合された事である。
法は、自己に対して超越的でなければならない。
故に、法は、神と人との誓約によらねばならない。
法は、神に対する人の誓いである。
法に対する責任は、人にある。
法は神に対する誓いに発する。

自己に対する背信であると伴に、
法を破るのは神に対する背信である。
間違えてはならない、法と対峙するのは、自分なのである。
神ではない。自分である。
法は、自己に対して中立的でなければ、自己を裁く根拠がない。
自己の対して中立的だから、法は法たりうるのである。
特定の人を絶対化してしまったら法は成り立たない。

それ故に、法も国家も自己を超越した存在を前提として成り立っている。
法も国家も人に対して中立的であらねばならないからである。

人を欺くのは、人である。
人を殺すのは、人である。
その報いを受けるのも人である。
神の名の下に人を殺したとしても、その報いは人が受けるのである。
救い神に依るのではない。
自らの行いによる。

自由は、人、それぞれの自己の主体に依る。
各々が自立した自己を持つ事で自由は保障されるのである。

自己を超越する存在は、神である。
神を信じぬ者は自己を神とする。
自己が神になった時、一切の妥協はなくなり、他人を受け入れる余地はなくなる。
争いは、果てしなく。自己も他者も滅ぼすまで続けられる。
この様な争いを抑制できるのは神のみである。

国家に法は一つである。
国家に制度は一つの体系によって整えられなければならない。
国家は統一されなけれはならない。
全体は唯一である。唯一だから自由は保障される。

故に、民主主義は神のみが創造できる。神のみが収束できる。

神を信じられなくなったら無条件で現実を受け入れるしかなくなるではないか。
万物に対して中立的である神を信じるから、現実の矛盾や不正を糾す事が出来る。
神は、完全無欠にして絶対な存在である。
不完全で相対的なのは人の意識である。
絶対的である神を信じるからこそ現実の不正と戦う事が出来るのである。
神を信じるからこそ、現実の自分を直視し、自分を裁き、又、許す事もできる。

現実とは今であり、未来ではない。
現実は、現実であって理想ではない。
現実は不自由であり、制約に満ちている。
現実に妥協したら、可能性は開かれない。
未来に希望があるから、可能性は生まれるのである。
だから神は意志である。
神は、希望である。

神の本質は、公平、平等、自由である。
人を拘束する規律や組織、権力、権威は、人が作った事である。
人を縛っているのは人の意識である。
神が創りだしたものではない。

神は、超然たる存在である。
超然たる神の存在があるから、民主的な体制は維持できるのである。
民主主義は神の賜である。
神は民主的な存在なのである。

超然たる神に対する信仰があってこそ民主主義は成就するのである。




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