2014年12月12日 11:07:32
神について思う
護るべき事
現代人の不幸の根源は、自分が護るべきものを見失いつつある事である。
何を護るべきなのか。
自己の存在をかけ、時には、命を賭けてでも何を護らなければならないのか。
その護るべき事こそ、自分に生きる意義や目的を与えてくれる事なのである。
だからこそ、自分が護らなければならない事は、自己という存在の根源に関わる事だと言えるのである。
生きるというのは、自分が護らなければならない事を、探し求める事から始まるのかもしれない。
護るべき事は、自分が積極的に、主体的に関わっていかないかぎり見いだせない事なのである。
だから、生きるという事に能動的に、積極的に、肯定的になろうとする事は、生きる目的、言い換えれば護るべき物を見いだそうとする事にその端緒があると言える。
それまでは、生きると言うより、生かされていると言える。
現代人は、自分が何を護らなければならないのかが曖昧になってきている。
極端な話、自分が護るべき事すら判らなくなってしまっている。
その結果、自分は何のために生きているのかも判然としなくなってしまうのである。
命を賭けて真摯に自分の信念を護っている生きている者を見て、一文の得にもならない愚かな事とあざ笑う者がいる。
自分が護るべき事を何一つ持っていないというのにである。
自分の得にならない事は何一つやりたくないと言うが、では、自分にとって何が得になるというのか。
自分という存在が空疎なら、何もかもが空疎なのである。
自分の中身が空っぽだから、一時の快楽や見せかけの価値に我を忘れるのである。
不倫、麻薬、博打、快楽に我が身を滅ばしていく。
自分という主体がないからである。
何を信じ護るべきなのかは自分で決めることである。
自分で決められないから護るべき事が得られないだけである。
自分がないから、周囲の目を気にして偽善、偽悪を気取るのである。
偽悪を気取ってそれが格好いいと思っている。
しかし自分がないから無責任にもなる。
愛する者を見いだそうとするのは、護るべき存在を見いだそうとする意志の現れでもある。
自分から積極的に責任を取っていこうとする。
そこに純粋の愛がある。
単なる、本能や欲望だけでは片付けられない。
生きるという事は、生きようとする意志によって支えられている。
愛されたいと思う前に愛する事だ。
現代人は、何を護るべきかが曖昧となり、究極的には、護るべき事そのものを失ってしまった。
その結果、生きようとする意志すら失ってしまった若間のたちが街を徘徊しているのである。
訳知り顔の大人達が、この世に神も仏もない。真実などないのだと吹聴し、悪の道へと誘い込む。
俺だけがお前の事理解していると誘惑し、魂を抜き取ろうとしているのだ。
自分がない者は、虚しい。真実がない。
自分というものがないから金とか、地位とか名声と言った見せかけのことに踊らされるのである。
命を賭けて護るべき事には、真実、真がなければ偽になる。
その根本は、自らの意志である。
そして、祈りである。
何を信じ、何を護ろうとするのかによってその人その人の生き様も決まってしまうのである。
自分の面子だの、地位だの、財宝だの、お金等を護るために、国家の独立や主権を売り渡す人もいれば、自らを犠牲にしてまで、人々の幸せや世の中の正義を護ろうとする者もいる。
不倫は、文化だ、美徳だと真実の愛に背を向ける者もいる。
己(おのれ)の不実を神の性にするのは、罪である。
どれだけ多く人間が自分の不実のために苦しんでいるか考えてみれば良い。
何を護るべきなのか、それはその人の生き様、人生までも左右してしまうのである。
先人達は、自分達の意志に基づいて護るべき事に従って生きてきた。
家族、国家、道徳、思想信条、自由、神。
それが今日の世界を形作っているのである。
護るべき事というのは、自己をこの世につなぎ止める碇のような役割を果たしているのである。
碇を失った人間は、自己の所在すら見失ってしまう。
そして、ただこの世を当てもなく彷徨い続ける事になる。
護るべき物がないから金に迷い、或いは、一時の快楽のために愛を失っていくのである。
何も信じるものがなく。何も信じられないのである。
自分を見いだせないものは、外に移った自分の姿を自分の真実だと思い込む。
だから、外形だけを重んじ、飾り立てようとする。
飾り立てれば飾り立てるほど、真実の自分の姿が失われていくというのにである。
大切なのは、自分が何を信じ、何を護ろうとしているのかである。
諸行無常。万物は流転する。
人の創り出したことに絶対な物はない。
形ある物は失われ、形なき物は忘れ去られていく。
自己を超越した存在である神のみが不変なのである。
だから、人は神を必要としている。
信仰は、積極的な意志の現れである。
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