2013年10月23日 11:07:32

神について思う

創造的人生、そして、目的


人生は自分が生み出していく事である。
人生は創造的な行為である。
だから生きる事なのである。

自分の力で生きていくんだと思い定めた時、
生かされている事から生きる事へと自分の人生は、かわる。
その時から自分の人生が始まる。
生きるという事は創造である。
人生は創造である。
自分の力で生きていこうとした時、生きる目的は生まれる。

生きるという事は生きるという事なのである。
自分で考え、悩み、判断し、反省をしながら生きていくのである。
自分がなければ、生きていけない。生きている事にはならない。

創造的な人生というのは、本来、合目的的な事である。
目的というのは、問題設定で言えば、なぜという部分である。
なぜと聞くと、鬱陶しく感じるものである。

人は、あるのではない。生まれるのである。
それが神の意志である。
神は無言にある事で我々に意志を示す。

仕事で目的は何と問うと、厭な顔をする人が結構いる。目的を明確にしろというと何を今更とか、目的なんて改めて考える事もなく、ハッキリしているではないかと言い出す。

しかし、何かの新しい仕事を始めようとして教科書を紐解くと、どの教科書を見ても目的を予めハッキリさせろと言う。
予めという事は事前にという事である。
つまり、目的というのは事後にハッキリさせる事ではない。
事後というのは結果が出てからでは遅いという事である。
つまり、目的は原因であり、動機である事を意味している。
目的から結果は測られるのである。

又、目標も目的ではない。
目標は、目指すべき、或いは、達成すべき具体的な指標である。
目的は、生きていく上での、事業を興す時の動機、原因である。
目的を達成するために目標を定めるのであって、目標を達成した結果として目的が達成されるわけではない。
目的があって目標が定まるのである。
目標は枠組みに過ぎない。

仕事でも、人生でも道に迷ったら、原点に返ろうという。
その原点にあるのが、目的である。
初心忘れるべからずとも言う。
その初心あるのも目的である。
成功したければ、志を立てようという。
その志の根っ子にあるのも目的である。

だから、仕事も人生も合目的的な事なのである。
人間は目的を持って生まれてきたわけではない。
人生の目的なんて神の側にある。
我々は生かされているのである。
だから、目的があったとしても窺い知る事はできない。

だから、人は生きている過程で生きる目的を自分で見いだすか、想像するしかない。
そして、生きる目的を持った時、人は、自分の人生を創り出す事ができるのである。
自分の人生は、創造的な事なのである。

生まれて、病んで、老い、死んでいく。
それを四苦というのならば、
自分で産み、病を癒やし、老いを楽しみ、死を受け入れる時、人生は拓けるのである。

人生の目的は最初から与えられているわけではない。
神は前を見よと示される。
生きているかぎり、前を見よと神は時の先を示される。

目的は、予め定められ、与えられている物ではない。
自分で見いだし、生み出し、定めていく事なのである。
だから、共通の目的を持ったならば絶えず確認し、話し合っていく必要がある。

共同で何かを成し遂げようとした時、組織を作った時、事業を興す時、目的を共有する必要が生じるのである。
目的を共有した時、志が生まれ、夢が生まれ、家族が形成されて、社会が生まれる。
人は一人では生きられない。
人は一人で生きていけない事を生まれた時に思い知らされるのである。
それこそが神の意志である。
一人で生きていこうとするな。目的を同じくする者を探し求めよと、神は、指し示されている。
生まれた時は、親子、育つ時は兄弟姉妹、学ぶ時は、友人同胞、事を興す時は同志、子を産み家族を作り、愛を成就する時は、愛する人を探し求めなければならないに様にできているのである。それが神の意志である。
求めよ、さらば与えられん。求めなければ何も与えられない。親ですら、親とした時与えられるのである。
その本質は目的である。

目的は、求めなければ与えられないというのに、我々は、事業に取りかかり、何かを成し遂げようとした時、はたと目的が何だったかを思い倦ねる。
目的なんて、最初から、ハッキリしていて考えるまでもないと思い込んでいたのに。
いざ考えてみると途端に解らなくなる。
人生において、なぜと問う事は、虚しい。しかし、なぜと問わずにいられないのである。
なぜ、生きているのか。
なぜ、人を愛するのか。
なぜ、働かなければならないのか。
なぜ、金を儲けるのか。

金儲けを目的だと錯覚したら、人生も仕事も誤る事になる。
この事だけは十分に気を付けておく必要がある。

金があっても幸せになれるとは限らないが、
金がなくても幸せにはなれる。
だから、金儲けは人生の目的にはならない。

金は生きていく為に必要な物である。
だから、金儲けをするのである。
しかし、金儲けをする目的は生きていく事である。
金儲けをするために生きているわけではない。
金儲けは生きる目的ではない。
生きる事、如何に生きるかにこそ目的がある。

手段と目的を取り違えてはならない。
それは、人生を虚しくしてしまうからである。

金儲けは、手段である。目的にはならない。
金儲けは手段において正しいのであって目的としては間違いである。
会計士や税理士の中には、利益こそ経営の目的だと教える者がいる。
彼等は盲人である。心の目が見えないのである。
利益は指標に過ぎない。目的にはならない。
人は金儲けの為に生きているわけではない。
現代経済の深い病巣がそこに伺われる。
利益は目的ではない。況んや金儲けを目的としたら、虚しさしかない。
なぜなら、金は虚構だからである。金は道具だからである。金は手段だからである。
金は人が作り出した事であり、神が創り出した物ではないからである。
金だけで人は幸せになれるわけではない。
金は儲ける事で効能を発揮するわけではない。
金は使う事で効能を発揮する。
だからこそ、大切なのは、儲け方ではなく、使い方なのである。
沢山儲けても人を不幸にすることに金を使うのならば本末転倒である。

金は犯罪の温床である。
人は金の為に罪を犯す。
その償いをするのは自分である。
罪を赦すのは神である。

目的とは、何か。
生きる目的とは何か。
そこには生きることの意義が隠されている。
自分は何の為に生かされているのか。
自分を生かす物に総てに感謝し、自分を生かす存在の為に働くことを覚えた時、自分の人生の目的は見えてくるのである。

目的は、予め定める事である。
目的は、予め定められている事ではない。
目的は、人事である。
目的は、神事ではない。
目的は、原点である。
目的は、結果ではない。
目的は、与えられる物ではない。
目的は、自分で見いだし、決める事である。
故に、目的は、意志である。

目的を誤れば、以後何をやっても無駄である。
なぜならば目的そのものが間違っているからである。
だから目的が大切なのである。
だから目的を確認する必要があるのである。
だから目的を定める必要があるのである。

行く先を間違えたら、どんなコースをとっても間違いである。
ところが目的をハッキリさせない、不確かなままで生きていこうとしたり、仕事をしようとする者がいる。
そして、道に迷った所で目的を探そうとする。しかし、その時には、目的そのものが失われているのである。
結果が出てから目的を決めようとする者もいる。
しかし、それでは結果そのものを評価しようがないのである。
なぜなら、結果は目的から測られる事だからである。
結果が出てから、目的を明らかにするという事は、結果を目的にすり替える事を意味するしかないのである。
そして、仕方がない、しょうがないとぼやきながら人生を諦めていく。

若い時は目的を求めて悩み苦しむのである。
教育をする時、この点を忘れてはならない。
教育とは、生きる目的を想像させる過程なのである。
その時間違った道を指し示せば、人生そのものを間違うのである。

人生の目的は、自分が苦しみ足掻きながら見いだし、或いは定めていく事なのである。

母親は、我が子を腕に抱いた時、生きる目的を感じる。
人は愛する人に出会った時、生きる目的を予感する。

知りたいと思った時、愛おしいと思った時、大切な物を守りたいと思った時、学びたいと感じた時、作りたいと思った時、美しいと思った時、欲しいと感じた時、助けたいと感じた時、行きたいと思った時、信じたいと思った時、許されたいと思った時、極めたいと思った時、人生の目的は生まれる。

真実を知りたいと思った人は、生きる目的の先に何があるのかを探りたくなる。
何かを想像したいと思った時、行きたい場所を知った時、夢が見えた時、
生きる目的の正体を知る。
人の喜ぶ姿を見た時、人の苦しむ姿を見た時、困った人に出会った時、人は生き甲斐を知る。
生き甲斐は生きる目的に通じる。

そして、目的を共有し、伴に悩み、伴に苦しみ、伴に喜ぶ相手が見つかった時、目的は夢となり実現性を帯びてくるのである。
目的は、愛となり、友情となり、哀れみとなり、慈悲となり、志となり、生きる事そのものとなる。
目的は、その時、達成されるのである。



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