純真無垢な人間でも間違いを犯す。それは、純真無垢だったからかもしれない。お人好しであるが、善良であるが故に罪を犯す者もいる。有能なるが故に過ちを犯す者もいる。 愛するが故に相手を許せない者いる。

間違いを犯したというだけで人を責められるであろうか。罪人は、絶対に許されないのであろうか。失敗したからと言ってそしれるであろうか。

傲慢なるが故に、人を指導できるのかもしれない。相手を誘惑し、すきにつけ込む事で交渉に成功する者もいる。人々を欺く事で世の中をまとめている者もいる。

指導者と言うだけで人格者と言えるであろうか。成功したと言うだけで賞賛できるであろうか。まとめたと言うだけで善良だと言えるであろうか。

善良である物でも貧しい物は貧しく。悪徳であるが故に富む者もいる。
しかし、その本質は、心が豊かであるか否かである。
貧しくとも心豊かな物はいる。失敗しても失敗して情熱を失わない不屈な勇者もいる。
物質的に恵まれている者でも愛情に乏しい者はいくらでもいる。成功したが故に自堕落になり、身を持ち崩していく者もいるのである。

愛するが故に、愛する人を殺してしまう事さえあるのである。
ならば愛とは何か。
考えれば考えるほど解らなくなる時がある。

何が正しくて、何が間違っているかではなく。自分が何を信じているか、自分の何を信じているかが問題なのである。

そして、人は皆、訳がわからないままに死んでいくのである。ただ、違いがあるとしたら神を信じているか否かの違いだろう。
最後に自分の行いを信じる事ができるかどうか、その違いである。
神を信じられない者は自分の行いを信じられないまま死んでいくのである。

大切な事は悔い改める事ができるかである。
悔い改める事ができなければ救われない。

自分だけは欺けないのである。欺こうとしても自分の心は背いていく。

科学を信仰する者は説明できれば理解したと思い込んでいる。
いくら説明したところで解らない事は解らないのである。
そうなると、科学も信仰の一種かもしれない。科学の何を信じ、何が信じられるのか、科学を、なぜ、信じられるというのか。
その点が明らかでない限り、科学も又信仰の一種なのである。

世の中には、黒白をハッキリ付けないと気が済まない人がいるが、現実の世の中は黒白がハッキリしない状況の方が多い。
黒白がハッキリしない状況で黒白をハッキリさせるのが指導者の役割だ。
だから、指導者は傲慢で良いというわけではない。
黒白がハッキリしないからと言って人間まで悪くなる必要はない。
現実に人は、黒白がハッキリしないところで決断していかなければならない。
だから間違いがある。
どんな決断をしても後悔する事が解っているような事すらあるのである。

だとしたら、事が明らかになった時に、悔い改めるしかない。
自分の罪を認め悔い改める事ができなければ、救いはないのである。





             


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自分の何を信じるのか。