2013年10月23日 11:07:32
神について思う
恩
日本は恩を根本とした社会である。
日本人にとって恩は、信仰と同じような働きをしている様にも見える。
恩というのは、世話になったり、助けられたり人に対して何らかの形で報いなければならないという感情である。
欧米人の信仰か神との契約を基調としているのに対して、日本人は、人と人との情、つまりは人情と義理を基調としている。
恩というのは情なのであり、契約のように明確な取り決めや義務と権利に基づいているわけではない。ただ、お世話になった、助けてもらったという思いや気持ちという曖昧模糊とした感情に基づいているのである。
そして、恩は、助け合いの精神に基づいている。助け合う事を前提とした時、互助の精神が大切となる。つまり、お互い様であり、相互関係を基本とし、一方的関係を基本とした事ではない。
だからお互い様が前提となる。そうなると一方的に助けられたり、世話になった時、お返ししなければならないという事になる。助けられっぱなしでは身勝手な事になり、規律違反になるのである。
この様な互助精神から、貸し借りの関係が成立するのである。
だから日本では、挨拶代わりにお陰様で、お世話様、お互い様と声を掛け合う。
恩には親の恩、師の恩、恩人、主の恩、国の恩等沢山ある。
博徒の世界には、一宿一飯の恩というのもある。
又、犬だって三日飼えば恩を忘れないとも教えられる。
この様な発想が、忠犬ハチ公の話の根底にあると考えられる。
日本以外では、犬と飼い主の愛情だけで捉えるが、日本は、そこに恩という思想が絡む。
裏返せば、恩知らずは、ヤクザや犬畜生にも劣ると言う思想である。
日本人はこの恩という思想を自覚していない。
それ程深いところで日本人の意識に根付いていると言える。
かつては、恥知らず、恩知らずというのは、全人格を否定されるのと同じだった。
恩というのは、その人個人が、相手に主体的に感じる感情を前提とし、強要される事でもできる事でもないとされる。
故に、恩に報いると言う事には、限りがない。
一度恩を感じたら恩を返すまで際限がないのである。
だから、恩を施すという行為も生まれるが、ただ、恩を感じるのも恩返しをする事も、あくまでも、当事者の問題だとされる。そこに本音と建て前という考え方が生じる余地がある。
つまり、恩を感じる感じないは、当人の問題だというのが建前だけれど、本音では、恩を感じない者は、人でなしだとという事である。
何に恩を感じるかは、その人その人の感性に委ねられているのであるが、恩知らずかいないかは別の基準が働いている。
だから、あまり恩、恩と他人に恩を強要すると恩着せがましいと厭がられるし、反面に、あいつは恩知らずだとなると信用を一遍に失う。
強制されて恩を感じるわけでもなく、何らかの客観的な基準があるわけでもない。
ただ、助けてもらったり、世話になった時、幾ばくかの恩を感じないようでは、恩知らずの誹りは免れない。
だから、常日頃から恩に報いるという姿勢が問われ。お中元、お歳暮と言った贈答という習慣を生むのである。
日頃お世話になった方に心ばかりの物を定められた時に贈るという習慣である。
この習慣はなかなかなくならない。それは恩返しという意味が含まれるからである。
お中元、お歳暮を贈らない者は恩知らずだと言う事である。
この恩という概念の上に忠や孝がある。
それが純粋な儒教との違いである。
恩を感じた相手に絶対的な服従が求められる。
それが日本人的な忠義、忠誠心の本となる。
それが日本人なのである。
しかも、その恩は親子代々引き継がれていく場合すらある。
最後には、確固とした信仰のようなことに変貌する。
恩はどんな犠牲を払ったとしても返さなければならない。
それがかつては愛国心、軍国主義に利用されたのである。
命に代えても恩には報いなければならない。
その思いが日本人には強いからである。
それが、他国との決定的違いである。
良い意味でも悪い意味でも、恩という思想が日本人の結束力を高め、日本人の活力の源となってきた。
ところが近年、その恩という思想が急速に薄れてきたいるように思える。
それが日本の国力の低下にも繋がっているのである。
恩というのは、義理人情の根源でもある。
義理や人情は、人と人との関係の中から生まれる感情である。
これは、理屈ではない。
そして、義理と人情こそが日本人の魂の拠り所なのである。
恩は命に代えても護らなければならないことなのである。
そこから心中ものや忠義ものが大衆受けするのである。
この様なメンタリティは外人にはなかなか理解されない。
論語では、恩ではなく、仁であり義である。
仁や義は、普遍的なことであるのに対して、恩は現実的なことである。
恩は現実の人間関係から生じる。
それが日本人の現実主義に結びついている。
つまり、現実の人間関係が倫理の根本を形成しているのである。
それだけに日本人の倫理観は生々しいのである。
この恩という感情が現代日本では薄れてきた。
恩が薄れ、それに変わって金銭関係が人間関係を支配しようとしている。
金銭関係というのは数値的関係である。
価値を何でもかんでも数値に置き換えてしまう。
神様だって御利益によって計る。
神様も金儲けのためのネタに過ぎない。
しかし、金は金てある。
金儲けは生きるための目的にはならない。
金が全てになった時、生きる目的は失われるのである。
金に魂を抜かれた抜け殻のような人間が街に溢れているのである。
金儲けを人生の目的とするのは、金の亡者である。
金のその物は、恩の対象にはならない。
恩を感じるのは、金の背後にある何らかの意志に対してである。
金が前面出てしまえば、恩は忘れられるのである。
金儲けは手段になり得ても目的にはなり得ない。
日本人の社会から恩が忘れられれば日本は日本でなくなる。
恩があるから日本はまとまってきたのである。
恩は日本人社会の核なのである。
恩知らずになれば日本は、人間関係を支えきれなくなる。
日本人にとって恩は一種の信仰なのである。
こう考えると究極的には、神の恩になる。
自分を生かす存在に対する恩。
自分を自分らしく存在させる神に対する恩である。
故に、恩は信仰の通じるのである。
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