2013年10月23日 11:07:32
神について思う
言って良い事悪い事。
人には言って良い事と悪い事がある。
言って良い事と悪い事は、相手によっても違ってくる。
今の日本人は、言っていい事と悪い事の区別がつかなくなってきたように思える。
やれ空気読めないとか、差別用語なんて表面に現れた問題にされるけれど、本当に相手が傷ついているかどうかと言った本質的な事は忘れられている。
神を信じる者に平然と神を罵倒したり、侮辱してもへらへら笑っていられる。
平然と相手の名誉を傷つけて、痛痒とも感じていない。
何でもかんでも自分の常識が通用すると思い込んでいる。
それでいて自分の考え方と違う者にたいしては怒りを感じて頭から否定してかかる。
誇りなんて微塵も持っていないの者に限て他人の誇りに対して鈍感になる。
そして、暴言を吐く
今の風潮は軽佻浮薄。
自分の信念を貫き通すなんて流行らない。
日本人は、自分の考えが世界どこでも通じると錯覚して、世界の出来事を見ている。
思想信条のために、命を懸けるなんて愚かな事としか受け止めない。
なんでも、かんでも、話せばわかるとばかり、いいからいいから、和をもって尊しで通そうとする。
民主主義だって何の争いもなく、自然に成り立ったと思い込んでいる。
世界から見たら世話の焼けるお人好しにすぎない。
アメリカ人がなぜ銃を手放さないのか。
それは、アメリカ人は、自由と独立を自らの手で、血で勝ち取ったからである。
アメリカ人の自由は、自らの手で勝ち取り、また、自分たちが命懸けで守るものなのである。
それに対して日本人の自由は、与えられた自由、守られている自由、家畜の自由に過ぎない。
思想・哲学者に向かって思想を捨て、信条を改めろと強要する事は、
死ねと言うような事である。
志ある者を侮辱する事は、相手を挑発しているのと同じである。
最近、思想、哲学者がいなくなった。
志ある者も少なくなった。
それは、自分の思想や哲学に命を賭ける者がいなくなった事を意味している。
自分の名誉を守るために命がけで戦う者がいなくなった事を意味する。
例えば政治家である。かつて政治家は自分の名誉を賭けて戦った。
今は、誇り高き政治家がいなくなったのである。
それ故に、いとも簡単に自分の節を曲げる。
恥知らずな政治家が増えた。
死のうは一定。
死は定まっているのである。
人間ある一定の年齢を超えたら、自分の死に方をしっかりと見つめる必要がある。
それは鬱という事ではない。
むしろ鬱ではないから死を真っ正面に捉える事ができるのである。
死を考える事は生を考える事である。
最近、何でもかんでも鬱病だ、人格障害だと片付けてしまう傾向があるが、死を考える事即ち、精神病だとか人格障害だとされてしまったら、武士も軍人も芸術家も哲学者も総て精神病だとなってしまう。
現実に、精神科医の中には、過去の偉人総てを精神障害だと決めつけている者すらいる。
そこが、現代科学の傲慢さである。
人には、人の道があり、個人個人の哲学や思想信条がある。
それを一律に心理学や脳科学で解決できると考える事の方がおかしいのである。
何をもって客観的と言い。何をもって主観的とするのか。
それこそが主観的な判断である。
年功、家柄、人種、宗教、資産、家系、家業、職業、学歴、性別というのは客観的事実であり、
能力や才能、実績というのは主観的事実なのである。
だからこそ客観的事実に固執すれば差別を認めざるを得なくなる。
ところが公平、公正を言う者、客観的事実を重んじる。
だから結局、学歴だの資格と言った別の基準に縛られる事になるのである。
何を言って良いのか、悪いのか。
何が主観か、客観か。
言葉狩りが随分と流行った。
しかし、言葉を狩ったところで差別がなくなるわけではない。
言葉が差別を生み出すのではなく。
人の認識が差別をもたらすのである。
神は、人の認識の外にある。
言葉に捕らわれて物事の本質を見失ってはならない。
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