善良であれば成功するとは限らないし、悪徳だから失敗するとも限らない。
 正しい事を言ったから世の中に受け入れられるとも言い切れないし、間違った事を言ったら世の中から反発を受けるとも限らない。
 成功、不成功は結果であり、過程ではない。
 では、どの時点を以て結果というのか。
 悪党でも栄耀栄華の内に一生を終える者もいる。
 正しい事を言った為に迫害を受け、処刑までされた者もいる。
  ならばなぜ善良を求め、正義を求めるのか。
 それは自分の心の平安にある。 悪党が死ぬなら、善人も死ぬ。
 人は死の前に平等である。善も悪も意味がなくなってしまう。 だから、人は神に救いを求める。
 神が人を善人と悪党に差別しないのなら、神に救いを求める必要があるのか。
 神に救いを求めるのは、自らの心の問題である。
 善良か悪徳かは心の有り様である。
 救われるか救われないかは心の有り様の問題である。

 猜疑心と不安、それでは心の平安は得られない。
 心が静かで平安でなければ幸せにはなれない。

 金儲けで言うなら悪党の方が金儲けは上手いかもしれない。人を脅して、騙して、金儲けのためなら手段を選ばない。
 やくざやギャングの方が良い家に住んで、外車を乗り回し、いい女を連れ回している。
 それだけ見れば、勧善懲悪なんて意味がないように見える。
 つまりは、神が何を良しとしているかは歴然としている。物質的な繁栄を良しとしてはいないのである。
 神が良しとするのは心の平安であり、愛である。
 心の平安や間がなければ神の祝福、即ち、幸せを手に入れることはできないのである。それが信仰の真実である。

 金がなくとも心豊かにあれば幸せになれる。いくら金持ちになったとしても心が貧しければ幸せにはなれない。
 人間が求める道は、万人に対する愛しかないのである。
 神に栄光あれ。



             


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神は善良か