2013年10月23日 11:07:32

神について思う

平和と戦争



 平和は、人々の力で作られ維持される状況であり、自然にでき、維持される状況ではない。一旦、平和な状況が破られれば、そこは暴力が支配する世界となる。
 暴力とは、人を支配する目的のために行使する強制力である。暴力は、本来、超法規的働きである。即ち、無法な働きである。

 平和は、暴力的要素が顕在化していない状態を言う。平和の陰には常に、暴力的状態が準備されていることを忘れてはならない。
 暴力には、内からの暴力と外からの暴力がある。
 内からの力によって平和な状態が壊された事象を内乱と言い、革命、クーデター、騒乱、一揆、打ち壊し、暴動、叛乱、テロ、等がある。
 外からの力によって平和な状態が壊された事象を外乱と言い、戦争、侵略、干渉、外圧、テロ、謀略等がある。

 国家とは、この内からの力と外からの力から社会、共同体を守るために結成された機構であり、唯一、公に許された暴力機関である。
 故に、国家を国家として成立させている要因は、内的暴力と外的暴力から国民を保護する事である。その一点において国家は暴力を行使することが許されている。
 国民を内的暴力から守る事象を治安と言い。外的暴力から守る事象を国防という。
 そして、治安の主体が警察であり、国防の主体が軍隊である。

 平和な状態が壊される最大の原因は、経済である。
 なぜならば、経済は生きる為の活動だからである。

 二番目の理由は、繁殖である。つまり、子孫を残すための活動である。
 自然状態にあって生きる為の活動と繁殖活動は、暴力を伴うことが許される活動である。
 雄は、自分の縄張り守る活動と雌を獲得する活動において暴力的になるのである。

 内乱、外乱、いずれの原因もこの二点、生きる為の活動か、繁殖のための活動のいずれかが隠されている。

 人間の欲望の根源は、食欲と性欲なのである。

 人間の社会は暴力によって支配されている。
 暴力には、私的な暴力と公的な暴力がある。
 私的な暴力も公的な暴力も社会の構成員を何らかの力によって強制的に従えようとする力という点においては変わりはない。
 強制的というのも自発的に従うか厭々従うかの違いがある。能動的に積極的に暴力に従おうという者もいれば、受動的に消極的に従う者もいる。ただ、受動的、消極的に従う物が増えれば、強制力は必然的に弱くなる。

 公的な暴力というのは、権力である。
 権力に対して能動的に、積極的に従おうという人間が減って、受動的に消極的に従う者が増えれば、権力の強制力は弱まり、規律や秩序が失われて私的な暴力が顕在化してくる。

 戦争の隠れた原因の第一は経済である。
 経済とは生きる為の活動である。
 生存がかかっているからこそ戦争は悲惨な結果を招くのである。

 死という帰結が同じならば、緩慢に死を待たずに、華々しく戦って死のうと多くの国民が思った時、戦争は起こる。
 死を覚悟して戦うから戦争となるのである。
 故に、戦争は最初から狂気をはらんでいる。
 戦場に、理性や良識を期待するのは愚かである。
 戦争は狂気に始まって、狂気に終わるのである。
 戦争は殺し合いなのである。

 敵国が侵略を意図し、或いは、侵略してきた時、彼等に自制を求めるのは愚かである。
 自制できないから攻めてきたのである。
 戦争は、自国民が望まなくても、相手国が戦争を望めば戦争は、妨げない。
 戦うか戦わないかは自分の一存では決められない。
 相手国の意志や都合にも左右されているのである。

 戦争が起こるのは、生きる為の資源が自給できないからである。
 資源の原産地を支配され、資源を独占され、交易路を遮断された、その資源を必須としている国は、戦わざるを得なくなる。
 それが戦争である。

 仮に、生存に関わる全ての資源を自国内で調達できるとしたら他国を侵略したりはしない。
 生存するために必要な資源が不足しているから侵略せざるを得ないのである。
 飢えが戦を求めるのである。

 近隣に飢えた国があれば戦争の危険性は高まる。
 戦い、奪い取るしか生きられないと、国民が、覚悟した時、戦端は開かれる。
 侵略者が戦いを覚悟したら、戦争は防げない。
 ならば、侵略者が戦いを覚悟する前に手を打つ必要がある。

 どちらか一方の国が相手国を必要としているからこそ戦争になるである。
 お互いに相手国を必要としているからこそ戦争になる。

 必要とする資源を奪い取るか、資源の保有者を支配するために戦争は起こるのである。
 戦争の背後には資源や生産手段の不均衡、偏りがあり。その不均衡、偏りが戦争の真の原因である。
 戦争は遊びではない。
 戦争は現実なのである。

 理想主義的な無政府主義者や非暴力主義者は、暴力を単純に悪だと決めつける傾向があるが暴力を単純に悪だと決めつけたら、解決はできない。暴力を単純に悪と決めつけ、暴力をなくせばこの様から悪をなくなるとして軍や警察を否定したとしても暴力はなくならない。

 軍隊が存在するから戦争になるわけではない。
 軍隊をなくせば戦争はなくなるというのは幻想に過ぎない。
 医者がいるから病気になるわけではない。
 警察をなくせば強盗がいなくなるわけではない。
 消防をなくせば火事がなくなるというのは馬鹿げた妄想である。

 同じように軍隊をなくせば戦争がなくなるわけではない。
 備えをなくす事は、むしろ、戦いを誘発する行為である。

 戦争は本来無法なのである。
 いかなる法律も戦争を妨げる事はできない。

 故に、戦争は、暴虐である。
 理不尽である。
 戦争は、破壊である。
 戦争は無慈悲である。
 戦争は殺すか殺されるかである。

 戦争は常識外の出来事である。
 戦争に正義はない。あるのは、勝敗である。強弱である。
 戦争に正義を求めるのは間違いである。
 だから、己の独立と自由を守るためには、戦って勝つしかないのである。

 それが戦争の非情な哲理である。
 敗者に大義はない。あるのは勝者の憐憫だけである。

 日本人は、平和は、無為自然にある状態だと思っている。
 何も努力せずにある状態だと錯覚している。

 日本人の自由は家畜の自由に過ぎない。肥え太れば、飼い主の饗宴に供される。
 真の自由を得たければ野生に戻るしかない。
 自分の生命財産、自由は自分の力で守る。

 この世には自由人と奴隷しか存在しないのである。
 自由の源は神にある。
 義を求めるのならば神に求めよ。
 平和を望むならば神に祈れ。


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