2013年10月23日 11:07:32

神について思う

なぜ、神を信じるのか




僕は先生がなさっていることは、偉大な事、それこそ、歴史を変えるほど偉大な事なんだと確信しています。
そして、先生には志もある。
だからこそなんです。
だからこそ信仰が必要なのです。

人は、何時か自分が許せなくなる。
特に、指導的立場にある者は・・・。

人間は神にはなれないからです。
毎日毎日、それこそ些細な事、つまらない事、あんなこと言わなければ良かったとか、言い過ぎたかなとか、反対にもっと厳しくすれば良かったとか、嘘をつくつもりではなかったのに、結果的に嘘になったり、約束を守れなかったり、
そう言った些細な失敗がボディーブローのようにきいてくるんですよ。
それこそ、こういうメールの誤字脱字だって気になり出す。
気になりだしたらきりがなくなる。

そういう些細な過ちや失敗は、自分しか気がつかないし、自分しか解らない。
些細でつまらない事だから、許してもらうとか、改める事がなかなかできない。
誰かに打ち明けるとか、相談するとか、許してもらうなんてできない。
謝る事もできない。
だってどうでも良い事なんですから。
まあいいやとなりがちである。
でも小さな嘘も積もり積もっていけば少しずつ自分の本性を変えてしまう。
自分の胸のあたりにモヤモヤが溜まっていく。
黙っていれば、嘘ついて誤魔化し、無視すればいいと思うようになる。
そうなると道徳が少しずつ変質する。
自分に言い訳ばかりするようになる。
真面目なんてばからしくなる。
罪の意識も失せていく。

そんな細かい事と目くじら立てなくてもと言い訳をする。
でも誰に言い訳をしているの。
自分に言い訳をしたところで仕方ないよね。
自分に言い訳ばかりしているうちに、段々、自分が嫌いになる。

そのうち誰も見ていないんだからと則(のり)を越えてしまう。
嘘をついたり、黙っていれば、他人の目は誤魔化せる。
でも自分の目は誤魔化せない。

約束を守れなくて謝る勇気もなかったら、
そういう時は、とりあえず神に赦しを請い。
小さく呟くんだ、約束は守ろうねと・・・。
それから素直に謝ろう。

子供の目というのは、純粋である。
息子が小学生だった頃、一円玉を拾ってきて警察へ届けた。
警察では、丁寧に遺失物届けを書いて受け取っていた。

大人になると、自分の目を気にしなくなる。
誰も見ていないのだからいいだろうと思うようになる。
しかし、自分は見ている。
自分の目は欺けない。
他の誰も見ていないかもしれないが、あなたは見ている。
だから、神も見ている。

礼節に厳しい人は礼節で、思想に厳格な人は思想で、愛情豊かな人は愛情で自分が許せなくなっていく。
人は人を傷つけずにはいられない。
それも愛する人を愛するが故に傷つけてしまう。
人は、間違いを犯す。
指導的立場に立つ者ほど間違いを犯しやすい。
なぜならば、決断しなければ立場にあるから、人より決断する機会が多い。
決断をする機会が多くなれば失敗する確率も高くなる。
失敗したって権力のある人間は、強引に認めなければいい。
力尽くで他人の口を封じる事もできるかもしれない。
なんだかんだ強弁して他人を欺く事だってできるかもしれない。
しかし、自分は欺けない。

神の目は自分の目、あなたの目です。
だから、イスラムではご神体は神の目です。
自分は見ている。神は見ている。
だから自分は欺けない。神は欺けない。
自分を欺き続ければ、自分が信じられなくなる。

苦しみ、悩み、迷う。
迷い迷って、自分が信じられなくなる。
自分が許せなくなる。
自分を許せなくなる。

自分が許せなくなった時、人は、ビジネスライク、非情に割り切ってしまうか、傲慢になるかしかない。
どちらにしても道徳がなくなる。
道徳がなくなれば自制心がなくなる。
自分を抑えられなくなって欲望や誘惑に負けてしまう。
自分が自分に溺れて身を持ち崩す。
偉大な指導者の多くの末路が悲惨なのは、自分が許せなくなるからだと思います。
しかも、例え自分は、望まなくても周囲が変わってくるし、許さなくなる。
偉そうにしたくなくても偉くなってしまうんです、
組織の頂点立つ者は、好む好まざるに関わらず自分を罰する者がいなくなるかもしれませんが、同時に、自分を許す者もいなくなるのです。
自分に反対する者を弾圧し、諫言する者を遠ざけるようになる。チャゲ&飛鳥の飛鳥が良い例ですか。
何でと思うのですが、自分でも理解できなくなる。
そして、自分が許せなくなる。
自分を許せないからです。
自分が絶対になるしかない。
その時から指導者は堕落するのです。
何時か必ず指導者はそういう立場に立たされる。
その時、自分が許せなくなったら。
自分を神とするしかなくなるのです。
でも、人間は、神にはなれない。
周囲がほっといてくれないし、自分も我慢ができなくなる。
これが一番怖い。僕は一番怖れている相手は自分です。
自分が怖い。
だから僕は神を必要としたのです。
それも自分の神です。自分を超越したところに存在し、自分を許してくれる絶対的存在それが神です。
その神と自分との間には何人も介在させません。
そうしないと私は介在者に隷属し、主体性を失う。
僕の言う神はそういう神です。
先生の信じる神は、先生の神。
僕の信じる神は、僕の神。
それが絶対的な神であれば唯一の神になる。
その神を信じる事によって私と先生は常に対等になれるのです。
私は、私の神にのみ赦しを請うし、先生は先生の神にのみ赦しを請えば良い。
神と自分との間には何人も入れてはならない。
そして、神は鏡です。日本の神がご神体を鏡にしているのは、深い意味があると私は思います。
明鏡止水。自分の姿を正しく映し出す鏡こそ神です。
私は、鏡のごとき友や師を常に求めています。
また、自分も鏡になれと研鑽します。絶えず己を磨くのです。
そして、先生のような方に出会えれば、神に祈りを捧げ感謝します。
ありがとうございますと心から手を合わせるのです。
それは私の神に対してです。
私にとって唯一の神です。
だから、絶対なのです。
それが一神教との神だと私は思います。
志ある者は、神を求めなければ成りません。
信仰なき者は、志はもてません。
なぜならば、自分を絶対視するしか道がなくなるからです。
合掌。
克己復礼。

どんな権力者も
聖人も、
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成功者も、
敗残者も
嘘つきも、
盗人も
聖職者も
教師も
政治家も
何時かは、一人、何も身につける事を許されず神の前に立たされる。
それが平等という事だ。
最後は一人神の前に立たされる。
怖れるべきは自分である。

懺悔し悔い改めよ。
自分の罪を認め、悔い改めるならば、
神は、何時でも、どの様な罪でも、お許しになる。
悔い改めるならば、神は、総てをお許しになる。


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