2013年10月23日 11:07:32
神について思う
日本人と無神論
日本人は、無神論の意味をはき違えている。
キリスト教やイスラム教といった元々一神教の社会において無神論を言うのと、日本のように多神教、或いは、元々人格神的な神、無神論に近い状態社会における無神論とでは本質が違うのである。一神教を基本とした社会においての無神論は、負であるが、多神教や無神論に近い社会においての無神論は、無なのである。
一神教とにおいて神は前提であり、神を否定することは前提を否定することなのである。
一神教徒にとって否定しようが、肯定しようが神の存在は前提なのである。日本人にとって神の存在は、大前提ではなく。無なのである。
一神教徒にとって神の存在は大前提であり、神の否定は、唯一性、絶対性、超越性、同時性の否定、つまり、この世の統一性を意味する。
それは、この世の秩序の根源や倫理、道徳の根源の否定にも繋がる。
だからこそ重大な意味を持つ。
単に迷信や偏見の否定ではない。
世の中の法や契約、制度、約束、結婚、諸々の人間関係だって統一性か失われれば信じられなくなる。
それに対して日本人の無神論というのは、もっと単純である。
だから、無神論が一神教徒に与える意味を理解することができない。
一神教とでない人にとって神の絶対性という意識は希薄である。
だから、例えば日本人にとっては、単に神の存在を認めるか、認めないかというのに過ぎない。
それに対して、一神教との言う無神論は、一神教徒にとっては神を否定することになる。
故に、一神教徒にとっていずれの立場を取るにせよ。それ即応の覚悟が必要なのである。
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