2013年10月23日 11:07:32

神について思う

心の病U


人の心の底に潜む闇。その闇が、心の病を引き起こす。
心の病の真因は、自己にある。自分自身の中にある。そう私には思える。
自信を失い、自分を所在がなくなった時、心の闇は、広がり、自分の心の大半を占めてしまう。

人は神にはなれない。完全無欠な存在にはなれない。善悪を超越した存在にもなれない。
誰にも、欠点、短所はあるし、失敗もする。失敗を積み重ねて成長もする。意図せず人を傷つける事もある。
優越感に浸り、皆が馬鹿に見える事もあるし、逆に、周囲の人間が自分より優秀に思え、誰よりも自分が劣っている様に思えて落ち込む事もある。
しかし、自分は、自分なのであって唯一の存在なのである。

他人と比較しても何もならない事は、わかっている。わかっていても他人と比較して優越感を持ったり、劣等感に苦しめられる。

自己とは、第一に、あらゆる行為の主体である。第二に、自己は認識主体である。第三に、自己は存在前提であり、認識前提である。第四に、自己は間接的認識対象である。第五に、自己は観念的、精神的存在である。
自己とは存在である。
肉体は、媒体に過ぎない。自己と肉体とを混同してはならない。
自己は、あらゆる行為の主体である。
つまり、すべての行為の発動困でありかつ、主動体、主現体である。
又、あらゆる対象に対する認識主体であり、そして、地上における唯一の主体である。
すべての行為の発動因とは、あらゆる行為の終極的原因である事を意味し、又、主動体とは、あらゆる行為の決定主、行動主を意味する。
決定主、行動主とは、自己が、その存在を自己の肉体の運動を通して、外界へ表現していく際、その運動を実行し、制御していく内的実体を意味し、又、主現体とは、自己の存在を体現できる、つまり自己の存在を自己の肉体を通して、外的対象が認知できるように体現化、実体化していく事の可能な存在を意味する。
又、認識主体とは、対象認識上において、最終的に対象を認知、識別する内的実体を意味する。そして、このような主体的存在は、自己以外に存在しない。

対象は純粋である。つまり、対象は無規定かつ無意味な存在である。意味は、対象を認識し、それを前提とした上で生じる。
対象の存在は、絶対である。対象は、唯一の存在する。
対象は完全無欠である。
対象は、無分別である。
対象は無法である。
対象は全てである。
この様な対象の存在を象徴する存在が神である。

分別は、認識によって生じる。対象を識別する必要から対象を分割する。対象を分割した瞬間から、対処の絶対性は失われ、対象は相対的なものとなる。
意識は認識によって生じる。故に、意識は、相対的で不完全である。意識は、分別によって成立する。
価値は分別によって生まれ、意識によって形作られる。

自己は間接的認識対象である。意識は、自己の対象に対する働きかけによって形成される。この様な自己の働きかけは、自己の内面に対する作用と外にある対象への作用の二つの作用からなる。対象と自己との相互作用となる。この様な働きは、認識の作用、反作用を成立させる。

これが私の理論の核です。この様な私の理論は、人間の心理は、自己の外界への働きかけとその結果としての内面への働きの相互作用によって成立するという考え方が基本にあります。

ですから、僕は、先生の提唱されている。相手と自己との鏡像関係を活用するという考え方には同調できるのですが、どうしても心理テストのような技法には戸惑いを感じるのです。
つまり、心理テストの結果は、相対的で絶対的なものではなく。それを成立させている前提や環境によって支配される。また、自己の存在の形態に基づいて、特に、間接的認識対象という構造、人間の心理は構造的に形成されると言うのが基本テーゼなのです。
それがこれまで、心理テントみたいな技法に対する違和感を感じさせていたのだと思います。
むろん、その効用には、凄く関心があるのですが、その結果を絶対視するのには、抵抗があるのです。
テレビなどで今流行の心理テスト、占いやクイズのようなものや脳科学万能的な発想です。
絵を描かせて描いた絵に、或いは、音を聞かせたり、色を選ばせる事で、その人の、その時の、内面の世界の状態、心理が象徴的に現れているというのは理解できます。
しかし、それを短絡的に何らかの結論、例えば、性格とか性向に結びつけてるのには、少なからず抵抗感があります。特に、四択問題のように扱うのには、違和感があります。
人間の内面の状態というのは、繊細なものであり、簡単に類型化しうるものではない。
また、前提条件や環境、状況が肝心なのであってその前提や環境、状況を省いたところでは理解ができないと自分は思う。
それをこの絵を選んだあなたはこういう性格ですみたいに断定をするのは乱暴すぎる。
それは血液型で、その人の性格を言い当てるくらいまやかしに感じるのです。
それが僕には、どうしても納得がいかないのです。
そして、その根本にある神の不在です。
僕にとって重要なのは、技法ではなくて、人間という存在とどう対面するかなのですね。
それはむしろ、医学と言うより、文学に近い物があります。
どうしても自分には理解できないし、解決できない苦しみや内面の問題も数多くあります。
憎しみという感情がなぜ生まれるのか。
不幸になると解っているのに感情を抑制できない。
男と女の問題は、その最たる問題です。
しかし、だからといって、それを脳の問題だとか、薬で治せる病だと片付けるのは短絡的すぎると思えるのです。
なぜなら、その苦しみの根源にあるのは、神であり、生きる事の本質だという気がするからです。
それは、自分の醜さ、弱さを神によって突きつけられている。
その実感がなければ、結局、根本的な解決には至らない気がします。
苦しむのならば、苦しむしかない。
悶え苦しみながら、だからこそ、神の救いを求める以外にない。
さもないと人間は、傲慢になり、より破滅的な過ちを犯すことになる。
それが、医学や薬でなんても治せると思い込むことです。
人間には解決のできない苦の本質がある。
それは、生病老死での四苦であり、それを笑いで誤魔化すのではなく。
包む込む事ができれば、何らかの回答が得られるのではないのか。
人間は死という現実からは逃れなれないのです。
解決できない苦の原因を受け入れ、それを生きるための活力に転じる事ができたならば、そこにこそ究極の救いがある。
どうにもならない苦しみと対決した時、はじめて真実の命、その背後に存在する神が薄ら見えてくる気がするのです。
それが認識の作用反作用。悲しいから嬉しい。苦しいから楽しい。愛は憎しみの基となり、憎しみから愛が生まれる。愛を憎しみに変えてしまうのは何か。何が憎しみを愛に変える事ができるのか。
そこに神の絶対的な赦しを人は必要としているのだと言う確信が生まれたのです。
だから、信じる以外に術はないのかなと、そして、悔い改める以外に救いはないのかと思ったりもするんです。
薬だの、脳科学だのに頼ってもその根本にある苦の原因を取り除けないのならば、それは一時凌ぎに過ぎない気がするのです。
それよりもその苦の原因と伴にあってその苦を苦としてではなく生きる糧に転化するように努めるしかないのかなと思うのです。




TOP         Contents         NEXT


このホームページはリンク・フリーです
Since 2013.11.29
本ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.


Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano