2013年10月23日 9:13:51

神について思う

心の病


僕は、憎しみだの、憎悪だの嫌悪等という非生産的な感情は持たない主義です。
だから、憎しみや憎悪をバネにしている人間の気持ちが理解できません。

しかし、愛情と憎しみが矛盾なく同居している人がいるのも事実である。

恨みや憎しみという感情は、人間の意識が作り出している事である。
故に、恨む理由なんていくらでもある。

日本のお化けは、恨み辛みで化けて出る。
本当に人間の執念とは恐ろしい。
しかし、恨みに実体があるかと言えば、それははなはだ怪しい。
恨む理由を意識がもたらすように、恨む理由も意識が打ち消す事もできるのである。
だから、恨む理由はあると言えばあり、ないと言えばないのである。

人間は意識が作り出した世界の中で生きている。
この世の出来事は、人間の意識の中で再構築されているのである。
我々は、自分の意識の外にある事は、理解できないのである。
異星人がいるとしても、それを認識しなければ、
その人の意識の中の世界では異星人は存在していないのである。
つまり、人間は意識の限界の中で生きている。
反対に意識が創作し、補っている世界もあるのである。
言い換えると自分の意識によって再構築された世界の中で自分達は生きているのである。

個々の部分や局面を見ると矛盾したり、対立していても、全体は統一されている。
ただ、必ずしも論理的に整合性がとれているとは限らない。
一己の人間として統一されているのである。

極限状態に追い込まれると、人間は、自分の意識を護らなければならなくなる。
自分の意識の土台にある価値観と矛盾した決断を迫られたり、行動を強いられると、
仮想の価値観を構築してその中に逃げ込むのである。
自分の同一性を保護するための緊急避難的行動であるが、
一度、作られた人格は、無意識の中で働く事になる。
この様な現象は、脳の働きと限界による。
しかし、苦し紛れに違う人格に逃げ込んだとしても、結局自分からは逃れられない。
常に、一つの全体は保たれているのである。

つまり、この様な心の病は、部分や局面を見ているだけでは癒やせないのである。
その人の意識さえも超えてその人、全体を包み込むような絶対的存在しか癒やせない場合がある。
人間としての全体を為させている存在、即ち、神のみが癒やせる部分があるのである。

優しさと残虐。
暖かさと冷酷さ。
寛容と峻厳。
解放と規律。

人間は、この両極端な感情が一つの魂の中に同居する事ができる。

当人は無自覚なのかもしれないが、真反対の価値観が同居していたりする。
兵士は、日常の社会では殺人は犯罪だが、戦場では英雄行為である。
このような価値観と行為との間にある矛盾は深刻な問題を引き起こす。

受験勉強も、親はさせたくないが、
しかし、受験に失敗させたくないという理由で子供に強要させなければならなくなる。
この様な親の言動の迷いは子供に深刻な影響を与える。

子供は、親の期待に一生懸命応えようとする。
だから、親の期待に応えられなくなった時、大きな挫折感を味わうのである。
それが人格形成に重大な影響を及ぼす。

夫婦仲が悪くても同様である。

子供は親の前で装ったり、擬態を示す。
巧妙に嘘をついたり、世渡りを覚えてしまう。
それが価値観を形成する一番大切な時期に重なれば、必然的に価値の形成の障害になる。

愛しながら憎む。
否。愛しているから憎らしい。
この様な状況は、その人にとって凄まじい心の葛藤とストレスをもたらす。
時には、別の人格や価値観が一つの肉体や意識、魂の中に宿る事さえある。

親が子供を独り立ちさせたいという意志と離れたくないという感情が、一つの意識の中で激しく葛藤する。
好きな人を独占したいという感情と相手の意思を尊重しなければ嫌われるといった感情や
それが愛憎となって現れたりするのである。

ただ、騙されてはならないのは、まるで別人のように思えても、意識は一つなのである。
一見して別人格であっても同じ一人の人間なのである。

感情の振幅が大きい人が感情が振り切れてしまって自分を抑制できなくなったり、
自分の意志に反する事を強要されて自分を制御できなくなる。
そんな極限状態に置かれると別の人格に転移するのである。

私は、心の病は、現代医学や心理学だけでは治せない部分があると思う。
医学や心理学を否定するつもりはない。
しかし、所詮人間の行う事には限界があるという事を忘れないで欲しいのだ。

むろん、かつての宗教は、心の病を癒やすどころか、悪化させたり、原因となる事もあった。
しかし、それは、人間の神に対する誤った認識がなせる業であり、真の神に対する認識ではない。
ただ、重要なのは、当人が神を受け入れるか否かである。

故に、神を必要とする。
神は際限なく、無分別で絶対である必要がある。
教え諭す神、或いは、裁く神ではなく。
赦し、認める神なのである。

本当に人格が分裂し、自己が喪失してしまったら、人間は、自分を制御する事ができなくなる。

そして、最後はその人自身の問題である。その人が神と一対一に向き合えるかどうかの問題である。
多くの人の心の病は、神を受け入れられない事に起因しているのだからである。




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