2013年10月15日

神について思う

俺は神を信じたくて信じているのだ


年を重ねると、いつの間にか、自分の人生も色褪せてくる。
ありふれた日々の中で、生きている事さえ忘れかけてしまう。
毎日、毎日、見慣れた風景を見ていると、
今日と同じように明日も来ると安易に信じ込んでしまう。
寄せては返す波のような、単調な繰り返しが、時の流れを意識の底に埋もれさせていく。
気がつけば、人生の終わりが見えてきて、死の影に怯える。

思い違いをするな。
俺は信じたくて、神を信じているのだ。
自分の人生に意義を持たせるために、
自分の意志で自分の生き様を決めるために、
俺は、神を信じたいから、戦闘的に、神を信じるのだ。

このままでいい。
余計な事はするな。
何もしないで生きていけ。
何をしても無駄だ。
おまえ一人で何ができる。
仕方がない。
しようがなじゃないかと妥協を迫る自分を払いのけ。
あの水平線の向こうに向かって、ただ一人、歩き出すために、
俺は、神を信じるのだ。

俺は、決して諦めない。
この異常で、異様な世界。
何もせずに目を背けているのか。
ただ安逸を貪り、無為に生きていくのか。

ただ、生きて、老い、病み、そして、死んでいくのか。
それでいいのか。

このままで終わりたくないなら、
怠惰な今の自分をかなぐり捨てる以外にないではないか。
生きている事を虚しくしたくないのだ。

人生を無意味だと嘆くならば、嘆けばいい。
しかし、少しでも自分の生きた証が欲しいのならば、嘆いてばかりいても何も拓けない。
前を見ろ。前進しろ。

自分の人生に意義を持たせる事ができる者がいるとしたら、
それはおまえしかいない。

世の中、変わらないと嘆く前に、自分を変えろ。
自分を哀れだと思うくらいなら、全てを賭けて戦うしかない。

目を瞑るな、前を見ろ。

このままでいいのか。
このまま終わっていいのか。

これで良いと怠惰な生活を続けているのは自分なのだ。
生きる事の真実を知りたいならば、決然と未知なる世界を受け入れるしかない。

忙しい。忙しいと言い訳するが、忙しさにかまけて自分を見失ってはいないか。
おまえの人生を決めるのはおまえだ。
人として為すべき事をしなければ、生きる事に値しない。
仕方がないと諦めていく、そんな惨めな人生とはおさらばだ。
だから、俺は、俺の意志で神を信じるのだ。

定年退職をすると、自分の生きる目標を見失う者がいる。
生きる目標とは、生きる事自体の根源にある。
仕事を失ったからといって目標を見失うのならば、それ以前に生きる事自体の意義を失っているのだ。
生きる事の根源に神がいる。
だから、私は、神と伴に生き。
神と伴に戦うのだ。

神の前に額ずくのは喜び。
神を信じるのは魂の救済。

神を信じなくとも生きていく事はできるかもしれない。
しかし、神を信じなければ自分らしく生きる事はできない。

立て。
立ち上がるのだ。
自分の足で立って歩き始めるのだ。

まだ見ぬ明日に向かって。
明日は自分の手で築くのだ。掴み取るのだ。

だから、だから、俺は神を信じるのだ。

勘違いをするな。

俺は、俺が信じたくて神を信じているのだ。
他人に強要されて神を信じるのではない。
今の自分をただ、黙って仕方がないと受け入れるために、神を信じるのではない。
妥協をするために神を信じるのではない。
自分の可能性を信じるために神を信じるのだ。
自分の限界に挑むために神を信じるのだ。

自分を信じ、明日に向かって歩き出すために、神を信じるのだ。
今を諦めないために、神を信じるのだ。

この世は科学万能だという。
科学的に解き明かせない事は何もないという。
科学だけが人類を幸せにできるという。
人は、ただ生きて死んでいくだと言う。
単なる物に過ぎないのだという。
生きるとは生理的現象の一つに過ぎないともいう。

それを科学だとか、進歩だというのならば、
俺は、科学も進歩も信じない。

彼等の多くは神は存在しないと主張する。
神などは迷信の一種だというのである。
しかし、神を信じる事が迷信だというなら、科学を万能だと信じるのも迷信の一種ではないのか。
科学を万能だと信じる根拠に乏しいのがその証拠である。

喜びも悲しみも人間の意識が生み出す幻影だと脳科学者は言う。
この世界は、脳が作り出した生理的現象だという脳科学者もいる。
喜びも悲しみも人間の意識が生み出したものだとしても、その意識を作り出しているのは、脳だと言い切れるだろうか。

数学も、脳科学も学べば学ぶほど、神の偉大さに心が震える。
無限有限、どちらにしても、神の深淵には遠く及ばない。
まるで神に弄ばれているようだ。

死は終わりではない。
生の延長線にある通過点に過ぎない。
生きて、生きて、生き抜く。
その先に何があろうと私は神を信じる。

もう駄目だと諦めるのには早すぎる。

止めとけ。
首を吊るには明るすぎる。

皇帝も死ぬ。
帝王も死ぬ。
天皇も死ぬ。
王侯貴族も死ぬ。
大統領も死ぬ。
国家主席も死ぬ。
総統も死ぬ。
首相も死ぬ。
聖人も死ぬ。
哲学者も死ぬ。
聖職者も死ぬ。
教祖も死ぬ。
英雄も死ぬ。
スポーツ選手も死ぬ。
科学者も死ぬ。
大富豪も死ぬ。
殺人鬼も死ぬ。
大悪党も死ぬ。
詐欺師も死ぬ。
友も死ぬ。
隣人も死ぬ。
敵も死ぬ。
味方も死ぬ。
犬も死ぬ。
虫けらも死ぬ。
父は死んだ。
母も何時かは逝くだろう。
俺も死ぬ。
おまえも死ぬ。
生き物全て死の前に平等だ。

ならば死に怯えたところで何の意味があろう。
死は、非情である。
順逆の別もない。

地位や財産があったって死ぬ時には死ぬ。
死は、己の虚飾を全てはぎ取り、魂を裸にしてしまう。
嘘はつけない。

名前なんてレッテルに過ぎない。
名前になんぞこだわったところで何になる。
この世に自分の物にできる物なんて自分の魂以外何もない。
私は一人だ。
だから、他人と比較したりはしない。

孤独な魂。
でも悪い意味ではない。

憎しみ、恨み、嫌悪、そんなマイナスな感情なんて何の役にも立たない。
前向きに、真っ直ぐに生きるしかない。
何かに固執するから憎しみが生まれ、憎悪が生まれ、嫌悪が生まれるのだ。
ならば無用な夾雑物は捨てて、純粋な一つの魂となるしかない。

自分が唯一もてる物が、自分の魂ならば、自分の純な魂をもって神に見(まみ)えるしかないじゃないか。
自分の人生を有意義なものにする為には、神を信じる以外にないのだ。

だから、私は、神を信じたくて神を信じるのだ。

俺の一生が無駄だと言われればそれまでだ。
でも、誰でも自分の意志さえあれば、自分の一生を有意義なものできる。
神さえ信じれば、だから、私は、神を信じたいように信じるのだ。

神は、生きる目的を明らかにしてくれる。
神は生き甲斐を与えてくれる。

前向きな人生を送るために、
自分の意志で、自分の人生を律するために。
怠惰な自分に決別をするために、
私は、自分の意志で神を信じるのだ。







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